いきなりですが、私は自分が幸せになると誰かが不幸になる〜と、ずっと思いこんでいました。誰かって?やっぱり母なんですね。自分は母以上に幸せになってはいけない。
苦労して戦後、山の中の一軒家で愚痴をこぼせる相手もいなくて、苦労を怒りに置き換えて一人で頑張って肉体労働に耐えてきた母以上に 、幸せになっていいなんて娘としてはどうしても思えなかったのです。母はいつも怒ってばかりでした・・・。
幼稚園の頃叔母が、黒い足踏みミシンを使おうと、台からクルッとまわして出そうとした時に台の縁に手をかけていた私の人差し指の生爪が一枚ペロッと剥がれて大泣きした時も、猟犬に噛まれた時も、釘を踏んづけた時も、いつもおまえが悪いからだ!!と責められていました。母自身もいつも自分を責める人でした。腎臓を悪くして入院した時も風邪を引いた時も、いつも自分が悪いんだと責めていました。父にもいつもそうでした。(男性不信はこの時からか?)今思えば更年期とも重なって辛かっただろうとも思いますが、責めたり怒ったりする事で何とかバランスをとっていたのだろうと思いますが、子供の私 には分かりませんでした。子供ながらに、いつも不安だった事、寂しかった事、何とか役に立ちたいと思いながらも、子供の私には出来ない事が多くお風呂に一緒に入った時赤く腫れた母の肩を見て、こんなになっているのに何もして上げられないと泣いて自分を責めた記憶があります。
でも、最近やっとそういう思いを、いつまでも引きずっているのも嫌だなあ〜と思える様になって来ました。〜自分と同じ思いをさせてはいけない〜と、結婚もしない子供も産まないと小さい時に私は間違った信念を持って貫いてしまいました。
子供が痛みで泣き叫んでいるのを聞いたときお母さんはどんな思いだっただろうね、と言われて、やっと目が醒めた思いでした。母はいつも一生懸命でした。それでも自分を責めていました。そ� �な姿を見るのは子供ながらに辛いものでした。だから子育てに毎日一生懸命のお母さん!!自分の事を責めなくていいですよ。いっぱい褒めてあげて下さいね。誰かに褒めて欲しくなったらいつでも和く輪く舎に来て下さいね。お待ちしています。
〜ところで何で幸せになっていっていいんだって思えたかって? それは、みんなが 分かれ道のワークをしてくれたからです。どうしても幸せになる道を選ばないっと頑張っていた私に、みんなは辛抱強く付きあってくれました。私の中では、「お先に、どうぞどうぞ幸せになって下さい。私はいいですから」と道を脇に除けている、という感じだったのですが 、 〜自分が幸せになると、他の人も幸せになるんだよ〜 という言葉を聞いてビックリしました。エーッ!!そうなんだ〜それなら私も幸せになってもいいのかな?と思いつつまだ渋っていたら、阿部先生がハタキを取り出して、もしまだ母の役に立てなかった〜という罪悪感を感じているとしたら、それを肩に背負いつつ幸せになる道を歩いていくんだ!!と後ろからハタキを肩に乗せて歩く様に促されました。その時は、幸せになる道の方に歩き出したのですが肩に乗せられたハタキの重かった事。それを言ったら人生とは、そういう重いものだと言われました。
〜幸せになる道なんてやっぱり私も選べないわ〜という方がいらっしゃったら、和く輪く舎に来てくださいね。みんなでお待ちしています。
何とかする!
先日、もう出かける時間なのに、何故かいつまでもテレビをつけたまま、グズグズしている自分がいて、何やっているんだろう?と思っていたら、テレビに突然スタントマンの人達が何人も出て来て、狭いスタジオの中で見事な乱闘シーンを演じていました。オー、何だこの人たちは?とその動きにプロを感じて見ていたら、クイズ番組で「今までに、どんな到底無理!と思われるスタントの依頼がありましたか?」という質問に対して、一人の人が滝壷に落ちるシーンの依頼を受けて、「滝壷の下がどれ位あるのか分らないのに飛べない」と断ったら、先輩がその仕事を引き受けていました。
その人はどんな仕事も「何とかする!」と言っていたので、「自分 を?」という質問に対して、「相手を!」と言っていました。その答えに会場からは、エーッとかヘエーとか驚きの声が聞こえていました。
私も最初そんな事していいのか?と思いましたが、日頃からお願いしたり、やっている事かーと思い直しました。むしろ、相手とも自分とも交渉したり折り合いをつけたりして、出来ないと断るのでなく、「何とかしよう!」とするその強さに惹かれました。ああ!この事だったのか、と納得して早々に家を出ました。
〜どうせ私は出来ないんだ〜という諦めの根強い私の中にも、「何とかする!」という方向にエネルギーを向ければいいのだ。その力を信頼すればいいのだ。諦めてしまいそうになるけれど誰の中にもそのエネルギーはあるのだと感じました。出来てない事にばかり� �がいきがちですが、みんな「何とかして」やって来ているんだと改めて感じました。
やってもらったり、やってあげたりしながら・・・と言いながら、『和く輪く舎だより』の仕上げもまた、スタッフのみなさんにご面倒をかけました。お蔭様で何とかするというよりは、何とかして頂いたという感じです。この度も本当にありがとうございました。
袋小路
ここ数ヶ月間、袋小路に入ってしまっています。
自分に対して疑問だらけで、今ひとつ自信持てないし、将来どうなるかも不安です。自分のことだけじゃなくて、世の中に対しても疑問だらけで、不信感や絶望感を感じることが多くなってます。考えすぎるのがよくないんだろうか、と思ってみても今の世の中どう考えても楽観的にはなれない気分です。「絶望感」と書きましたが、それでも「悲観的になろうが今ちゃんと見据えておかなくてはいけないことがあるんだ、いったい自分には何ができるんだろうか」と真面目に考えてみたりもしています。しかし、今のところすっきりした答えが出ません。そこでさらに将来不安になります。また、世の中のことについて� �ちゃんと見据えなくては」と思っているくせに、一番身近な自分のことはちゃんと見据えずに見たくないものは見ないようにしているところもあって、本当に自分って困ったものです。
さて、ある夕方、とある仕事先でいろんな残務処理を一人でしていたとき、本当になんの脈略もなく、なんでそんなこと考え始めたのか自分でもわからないのですが、十数年前、とある学校に通うために住んでいた四国の松山での「家から学校までの通学路の道筋」を思い出せなくなっていることに気付き、頭の中で探りはじめていました。
当時、家から学校まで自転車で30分くらいかけて通っていましたが、広い道路を通っていくと大回りになってしまうので、入学から何ヶ月もかけて裏道を徹底研究して「この道が一番早い!」とい� ��のを見つけていました。その裏道というのは本当に自転車の幅ぎりぎりの塀と塀の間をすり抜けていくところや、ちょっとうっかりすると横の溝に落ちてしまいそうな狭い道もありました。なぜか犬を路上で何匹も放し飼いにしている家があって、学校帰りに街中でハンバーガーなどを買って帰ると、やっぱり臭いでわかるみたいでその犬が1〜2匹猛烈に追いかけてくるので、必死で逃げなくてはいけないというポイントもありました。
そういう断片的にあんなところがあったなーというのは思い出すのですが、しかし、家を出てから順にどう通ってどんな景色があって学校に到着していたのか、その30分の行程を思い出そうとすると、あまりに複雑すぎてどうしても途中で道がわからなくなってしまうのでした。半分くらい� ��ところで、この後どうだったかなあ、あーでもないこーでもない、と思い出そうとがんばり続けているとき、ふと「あの時の自分はどんな気分や思いを抱えて通学路を走っていたのかなあ」と急に思い起こし始め、その途端、不意に体が緩んで涙があふれてきました。
なんだかその「学校に通学中の自分」が自分はとても好きなのです。そして、今の自分はそのときの自分より間違いなく成長しているということも実感できて、なんだか安心できるのです。未来の自分もきっと今より成長できているよ、という希望も湧いてきました。はー、なるほどなー、と少し味わってみました。
その後まもなく「でも今の自分より松山に住んでいた頃の自分の方が、すごいこともあるな」と思い至りました。1年間学校に通った後、僕 は自営でピアノ教室を始めましたが、今思えばあんなことよくできたなーと思ってしまいます。昔の自分すごいです。今の自分ちょっと困ってしまいました。しかし、未来の自分が今の自分を見たときも、同じように昔の自分はすごいって思うかもしれません。
これはそもそも、自分のこととはいえ「比べよう」っていうのが間違っているのかもしれませんね。昔の自分を認めてあげるっていう感じだと、暖かい気持ちになります。
でも、さらに「ずっと変わっていない自分」もあるよなー、というのも感じました。例えば冗談のセンスは幼稚園のころから(ひょっとしたら赤ちゃんの頃から!)ずっと変わっていないような気がします。そして自分の冗談のセンスはもちろん好きです。「しかし、最近なにか面白い会心の� �談を言っただろうか?」「思い浮かばない・・・!」
ということで、「今の自分」と「昔の自分」と「未来の自分」と「変わらない自分」が出てきてしまって、よく整理がつかなくなってしまい、また新たな袋小路に入ってしまうのでした・・・。
でもこの文を書いていて、迷っている自分もなんだか好きになりました。
知っていたけど、気づいていたけど・・・
『和く輪くだより』55号に、「三年ぐらい前に、母(イメージの)と正面から向き合うことが出来て(それまでは私が守ってあげなければならない母でした)、文句が言えてから、ずいぶん自分の中で縛っていたものがゆるんできた感じがありました。」というWさんの体験談がありましたが、私は、母が亡くなって20年、今もまだ向き合えていないという感じがしています。私もまた、私が母を守ってあげなければならないと思いこんでいたようでした。母とはとても距離が近く、また母に十分愛されていたと感じられるのですが、母に抱かれていることはイメージできなくて、私が母を抱いているのです。母を決してがっかりさせず、母の期待� ��りに応えていくこと、母を喜ばせることで母を支えていくこと、それが私の行動の基準になっていたように思います。
つい最近、あるワークを体験する機会がありました。自分の感じがぴったりする位置に他の人に立ってもらって、起こることを待ってみました。私の場合は、最初斜め後ろに男性、少ししてから正面に女性に立ってもらいました。その時点では、その人達が私にとってどういう関係の人なのか私自身もわからないのですが、しばらくして、3人のダイナミックな動きがそれぞれに起こり始めた中で、その女性は母だということがわかってきました(男性は、ワークの終盤で夫であるような気がしました)。そしてその母親役の人との間が重いものでつながっているような気がして、それが母の望む道で、それを否� ��なしに選ばざるを得ない感じがしました。
以前初めて分かれ道のワークをした時に、幼な子ではなく少し大きくなってからの私が、易き道を進んで行く気持ちは全くなくて、母が望んでいる道を自ら選ぶのですが、「行けばいいんでしょ、行けば!」と母の手を振り切って一人でどんどん行ってしまった事がありました。母の期待に応えて頑張り続けることはとてもたいへんだったのですが、それは母思いの私が望んでいたことでもあると思っていたので、私の中にそんな気持ちがあったのは全く意外でした。今回の母との間の重いものは、その時の感じに似たものがありました。
そして、今回のワークではそのあと母が近づいてきて私を抱こうとするのですが、私は腰が引けた感じになりました。そして私の体にさしのべ られた母の手を丁重に母の方へ戻し、「もう私は自分の道を歩いていきます」と心の中で言いました。生まれて初めての事に、とても不慣れで居心地が悪く落ち着けない私は、子供のようにTシャツの裾をもじもじとさわっていました。そして、母に「笑って」とお願いしたあと、私から母にほほえみかけ手を振っているところでワークを終えました。
ところがその後で、母親役の人が「ずっと守ってあげたいと思っていた。なかなか離れなかったので、もう大丈夫でしょう?という感じだった」というのを聞いて、「何言ってるの、そんなことみじんも感じさせてくれなかったじゃないの?ずっと私はお母さんのことが気がかりで離れられなかったのに・・・」と無性に腹が立って、涙がこみ上げてきました。
それから三� �後、今度は運命に頭を下げるというワークをする機会に恵まれました。母親役に前に立ってもらい運命に敬意を表し、頭を下げるというワークですが、以前やった時には私にとって難しかったワークです。今回はさらに援助者が一人ついて頭を下げることを手伝ってもらう(押さえてもらう)ようにしたのですが、しっかりと押さえてもらうことで、「だって、(お母さんをずっと支えるのは)たいへんだったよう」という気持ちが急にこみ上げてきて涙がこぼれました。そしてその後頭がすんなり下げられたのです。
三日前に急に怒りたくなったのも私の中にまだまだ聞いて欲しい言い分があったんだなあと気づきました。今まで気づいていなかった自分の中の気持ちに出会うことは、癒しの旅のとても大きな一歩になると思い� �す。でも振り返ると、私の場合「知ってるよー」「気づいてるよー」というだけで実際に言い分を聞いてあげるのがずいぶんお預けになっていたということに気がつきました。もっともっと聞いて欲しい言い分や文句が言い出せる時の来るのを待っていたように思います。知っていたはず、気づいていたはずのことが、気持ちの深いところで、腑に落ちたように感じられたときに、また一段、癒しのらせん階段を上っていくのですよね。
母と正面から向き合えるようになること、それはきっと私にとって何かとても意味あることのような気がずっとしてきました。楽しみにしながら、もう少し自分の言い分に耳を傾けていこうと思います。
ダダをこねて甘えて、そして叱って欲しかった?
昨年の秋頃から私の中の「幼い私」がすごく楽しいダダこねを始めました。
今までずーっとダダこねワークになる度に「周りの人に迷惑をかけてしまうからだめ!」とか「怖い、怖い」と言う気持ちがあって、ワークであっても気持ちのいいダダこねが出来ませんでした。
3年ぐらい前に、母(イメージの)と正面から向き合うことが出来て(それまでは私が守ってあげなければならない母でした)文句が言えてから、ずいぶん自分の中で縛っていたものがゆるんできた感じがありました。
楽しいダダこねが出来るようになった発端は、「分かれ道のワーク」でした。初めて自分が子ども役になってみたとき、思いがけない自分� �出会いました。お母さん役の方が呼んでいる声を聞いただけで、うれしくてうれしくて涙が止まらなくなりました。「幼い私」は「もっと呼んで!もっと呼んで!」と母の呼ぶ声を求めていました。その優しい声を十分に味わい尽くしました。そうすると呼ばれただけでその愛が伝わってくるのです。「大好きよ。私のかわいい子ども。その全てを愛しているよ」と。
さて「こっちへおいで」と言われた瞬間、こともあろうに座布団を蹴飛ばしていたのです。悪さをしようという気持ちなどどこにもありません。「お母さんが愛してくれるから安心して何でも出来る」という感じで、すっかり甘えていたのです。
次に手をつないで歩くことになると、手をつないだだけで、楽しくて楽しくてピョンピョン飛び跳ねました。つ� ��いだ手からいっぱいの愛が伝わるのです。「こうして愛が伝わるんだなぁ」という実感がありました。そして「こっちへ行きましょう」と言われたとたん「やだ、やだ、あっちがいい」と言いたい放題ダダをこねました。「愛されているという自信」で甘えられたように思います。心の底から楽しい気持ちでした。
きっと幼い子どもは大好きなお母さんの愛を感じれば感じるほど、安心して甘えることが出来るのでしょうね。ただ正直に「いやだ」「つまらない」「やりたくない」「怖いよ」「さみしいよ」と甘えて言えるんだなと思いました。ですからお母さんはただ「そうか、そうか」と言って、聞いていればいいだけなんだと言うことも、実感出来ました。子どもがダダをこねても困ってしまわなくていいのです。自分を責� ��ることもないのです。子どもはただ自分の感情をお母さんに甘えて表現したり、言いたいことを聞いてほしいだけなのですからね。
さてその後、お母さん役の方が「お母さんはあなたにこうして欲しい」「これは止めましょう」と正しく導いてくれたので、それはそれなりに「ああ、あのまま悪い子にならなくて良かった」とホッとした気持ちにはなれました。
でもなんだか「幼い私」は心が晴れないのです。呼んでもらった時や、手をつないでもらった時のような感動が無いのです。「どうして?どうして?」と幼い自分に聞いてみました。「もしかして叱られたかった?」「……」言葉はないけれど、何だかうなずく幼い私がいるようです。「そんなぁ!いやでしょう」「だめじゃないの!」と言う大人の私もいます。 でも「そうかもしれない」という気持ちもあります。8人兄弟の末っ子の私は、かわいいというだけでなく、忙しさのあまりかまってもらえなかった、叱っている暇なんか無い暮らしの中にいました。「せめて叱ってでも私を見て!」と言っているのかも知れません。次回、チャンスがあったら「叱って欲しかった?」という「分かれ道ワーク」をやってみたいと楽しみにしています。
子育て中の皆さんも、そんな体験ができると、もっと気楽に子どもとつきあえるのではないか、そして幼い頃満たせなかった思いも、満たすことが出来るように思います。
2005年が明けました
明けましておめでとうございます。皆さんはどんな新年をお迎えでしようか。
最近の新聞に、絵本屋の落合恵子さんが、「さいごには だれもが 死ぬ」という表題で、『せかいのひとびと』という本を紹介していました。作者の言葉を紹介しながら、ご自身の感想を次のように書いていました。
「世界にはいろいろなひとがいていろいろな価値観があり、それに優劣をつけることは出来ない」
・・・・そう、「いろいろ」がいい。「ひとつ」じゃなくて、「いろいろ」が。どれが先でもどれが後でもなく、共に在る社会。
「人間は身分とか 地位とか かい級なんていうおかしな しくみを つくってきた でも みんな同じ地球で くらしている� ��だし 同じ空気を すって 同じ太陽に てらされているんだ。そして さいごには だれもが 死ぬ」
・・・・「さいごにはだれもが死ぬ」、この当たり前のことを実感しているか否かによって、たぶん人生の景色はまるで違ってくるはず。
昨年は多くの命が安易に奪われる事件が続きました。そして私は生まれ出た命と終末の命に出会いました。
去年の今頃大坂から、88才にならんとする母が来ました。すぐに一ヶ月の入院生活、小さくなって弱々しい母を見て、後どれくらい生きられるんだろうと 正直思いました。そして介護が始まりました。
主人や嫁達のサポ−トを得て何とか一年を乗り切りましたが、その半ばを過ぎたころ少々煮詰まっていた私に、主人が「良い映画をやっているから行こ� ��」と誘ってくれました。『らくだの涙』と言うモンゴルの大自然に生きる遊牧民一家が子育てできない母らくだの心を癒すドキュメンタリ−映画でした。
ポスタ−をみると「泣いたらやさしくなれた」と書いたキャッチフレ−ズと可愛いらくだの写真がありました。内容は難産で出産したらくだのお母さんが、「育児拒否」をするのですが、モンゴルではそんなとき、馬頭琴という楽器弾きを呼んで、家族の若いお母さんが、「ホ−ホイホ−」と大草原に響き渡るような素朴な声で、うたいながら家族全員のみまもる中で、らくだのお母さんの体を、やさしくなで続けながら、癒していくという習慣があるのだそうです。
らくだの大きな目に湖のように涙が溢れ出るのを見て、私の目にも溢れるものがありました。それから 何日かして、様々な介護が必要になってきた母に、施設の利用もせざるを得なくなって、その話をするとまだまだ自分でやれると思っている母は、強い口調で「嫌だなあ」と言います。そして「そんなにまでして生きていてもしょうがない」と悲しくなることを言うのです。今の状況を母に理解してもらうのにはと、言葉を探している内に涙が出てきて「ごめんね、ごめんね」としか言えませんでした。母の背中をさすりながら抱くようにして。母の泣く声を聞いたのは、その時が初めてでした。「いいんだよ、いいんだよ。悪いね−、世話をかけて」と言いながら。強い母でした。「何でも自分でやる癖がついている」と口癖のように言います。
そんな母もなんだか「泣いたらやさしくなれた」ようです。今は骨折をして、リハビ リ病院に入院していますが、3才のひ孫に「おばあちゃん頑張って」と言われ、会うのを楽しみにずいぶん心は元気になってきたようで、一安心しています。
昨年は、なんとかけがえのない多くの命が奪われてしまったことでしょう。和く輪く舎に集う皆さんと共に、少しでも気持ちの良い日が送れますように、そしてそれが、世の中の全てのひとびとに 伝染しますようにと、祈ります。
みんな役に立ちたいんだよね
夏に抱っこ法の研修会があり、九州まで行ってきました。その時大阪の援助者であるSさんから、「ゆらゆら体操」を親子でやっているという発表を映像とお話し、それから実技を通して教えてもらいました。Sさんの所に通ってくる人たちが映像ででてきました。初めはまず自分たちがお母さんにやってもらうことから体験していったそうです。でも最近はお母さんにやってあげるようになり、役割を交代することでのメリットがたくさんあるということでした。「ゆらゆら体操」とは1人は床に寝てもう1人が足をごろごろ揺らしたり、腕をぶらぶら揺らすことで受けている人がリラックスしていきます。
交代してお母さ んにやってあげている男の子の満足そうな姿に、「これだ!!!これだ!!」と思いました。そして相談に来ている何人かの顔が思い出されました。私の中にずっとどうしたらいいだろうと思ってきたことがあったのです。それは小さいときから相談にきて泣いたり笑ったりしてきた子たちが、思春期を迎えて、「自分はやってもらうだけで何もかも中途半端だ」と思って、苛立ちとあきらめのような何とも言えない感じが、彼らから伝わってきていたのです。人の役、もっと突き詰めると、今まで大事にしてきてくれたお母さんに、なんにもしてあげられない不甲斐なさみたいなものが、早い人は小3ぐらいから沸々と沸いてきて苛立ちとなって暴走してみたり、怒ってみたり、自分を傷つけたり、八つ当たりしている姿が痛々しく見え� ��いました。どんなに「そのままの君でいいんだ」と慰めても、埋められない空虚さがきっと彼らにあったのでしょう。
それはそうですよね。生きていく上で役割って大きな生きる糧になりますよね。大きな視点に立てば"そのままでいいんだ。そこにいるだけで障害のあるその人生を歩み続けるだけで、周りの人にたくさんのことを気づかせてくれる"のだけど、本人とすれば見える役割、直接「ありがとう」と喜んでくれる相手がいる役割がほしいものですよね。そう、私だって同じことでした。持ちつ持たれつの相互関係はとっても大事なことですよね。
そしてここでもう1つ、「ゆらゆら体操」のいいところは、ただ揺らすだけで簡単ということ。何のテクニックもいらない。簡単ということは手伝う側も簡単だとい うこと。もしかしたら本当はテクニックがあるのかもしれないけれど、揺らしてもらうだけで相当気持ちがいいので、難しいところはこの際、ちょっと横に置いといて「やってみよう」と研修を受けた時そう思いました。
初めてやったのはY君。小さいときからお姉ちゃんがお母さんのお手伝いを上手にやってきたので、Y君の"お母さんの役に立ちたい"という気持ちはひとしおなんです。今はだいぶ穏やかな本来の彼に戻ってきましたが、1・2年前ぐらいはどっかに行ってしまったり、外で大声で泣きわめいてお母さんが困ったり、火がついていなかったので良かったのだけど、ストーブをわざと倒したりと、急にこんな風に困らせることばかりし始めた彼にとまどい、お母さんが一緒に生活できないかもとまで思い詰めた時期もありました。
今回はひと泣きした後、お母さんに「ゆらゆら体操」をする前、ほんのちょっと本人に「こんな風にやるんだよ」と私が彼の足を揺らして見ました。そしてお母さんに横になってもらい、足のゆ� �ゆらをやってもらいました。その時のY君のうれしそうな顔といったら、それはそれは輝くような顔で、本当に印象的でした。私は後ろで彼を支えていたので、横からの顔しかわからなかったのですが、にこにこと周りで見ていたおとなの顔やお母さんの顔を見渡しながら、本当にきらきらと目が輝いていました。後ろ姿はすくっと立って誇らしそうでした。お母さんも気持ちよさそうにして、お互いいい感じでした。Y君はどんな思いを伝えていたのでしょうか。いっぱい泣いたときとはまた違う"凛とした"感じかな。とてもいい感じの後ろ姿で親子は帰っていきました。
それから次にやってみたのがT君。学習会に参加しているときも、1年ぐらい前から積極的になってきた彼、それまでは自分がピアノを弾く番でもおずお� �と、「ほらT君の番だよ」と言われて真ん中に出てくる感じでした。それが「ぼくがやる」と自分から真ん中に出てくるようになって、「T君変わったよね」と喜んでいました。そして今年、4月になって担任が変わり、その先生との出会ったことで、"T君は車いすがとってもうまく操縦できる"ということを周りの人たちにわかってもらい、ご機嫌な彼。障害物があるとぱっと止まったり、くるっとUターンもお手のもの。そんな今までと違う彼の姿をお母さんも楽しそうに話してくれます。が、そうは言ってもうまくご飯を飲み込めなかったり、車いすの移動にも制限があるので、彼に対してお母さんがしてあげなくてはならないことは山のようにあります。だからきっとT君もお母さんに自分が何かをしてあげたいのではないかな と思ったので、「ゆらゆら体操」をやってみました。するとやっぱり!!うれしそうな顔でいつまでもいつまでもやっていました。この時も私はT君の後ろにいました。そしてT君の体を支えて、手の所を私の手で覆って彼の動きに付き合ってみました。するとおもしろいことに、彼の手が色々な所に揺らしながら移っていくのでした。移っていくとお母さんが「あぁそこも気持ちいいわ」といって喜んでいました。なんだか気持ちいい所に自然と手が行く感じがしてとっても不思議でした。
その後、歌を歌ったり、ピアノを弾いたりしました。ピアノを弾く手が良く動いていたり、積極さに拍車がかかって何回もピアノを弾いていました。もうたくさんのことをやったので、今日はお母さんと字を書く練習はやめにしていいかなと 私が言うと、なんだか不満げな顔。これは行けるかも!と、私の心の中で電気がぴかっと光った。「じゃぁ手のひらで○か×を使ってやるかやらないか教えてよ」と言って「やりますか」と聞くと、お母さんの手に○としっかり書いていました。やった!!!その後のドリルの問題も今までと違って手に力が入り過ぎず、リラックスしてやっていました。
人のために自分も何かができるんだと思うその気持ちは、その人の中にある今まで発揮し切れていなかった力を引き出すだけでなく、気負いまでもをそぎ落とすそんなパワーがあるのですね。そしてあるがままのその人を、一人の完璧な人間としてそこに存在しているそんな感じがするのだなと、その様子を見て感じました。そしてT君が最後に、「ぼくが、ぼくが、ぼくがお母� ��んにやってあげられた」と何回も筆談で書いたのがとても印象的でした。この「ぼくが」を求めている人が他にもたくさんいるんだろうなってつくづく思いました。ぜひ「ゆらゆら体操」を子どもにやってもらって下さい。気持ちいいですよ。
生まれた子供は、私たちが合唱である宇宙に歌う
自分で決めていいって何???
先日の抱っこの講演会での、分かれ道のワークは、私にとっても貴重な気づきの体験となりました。ある研究会に行くと自分で決めていい、自分で決めるんです。といつも言われていました。でもその言葉は私にとってちっともピンと来ないものでした。自分で決めるって何言ってんだろう?位にしか感じられませんでした。でも流石に何度も言われると、段々私の中でザワザワしてきていた時のワークでした。自分で決めていいわけないでしょう。そういう事は周りの思惑を推し量って決める事であって、自分が何かを考えて決めていいはずがないと思っていたので、何の事やらさっぱりわかりませんでした。自分が分かれ道に立ったつもりになった時、私も母の思惑を慮って、母の望む様に、期待に応える道を、母の助けになる様 な選択を、無意識に選んでいました。その中からしか選べなかったし、母親の気持ちに対して子供の私は、敏感に感じ取っていたと思います。また一方では、親の望む様にしないと、食べさせてもらえなくなる、だから親の言う事は聞かなくてはいけないものなのだという、せっぱ詰まった感じもあり、子供って何て理不尽なんだろうと、思っていた面もありました。
そんな事を思っていたのは、私だけでしょうか?どちらにしても、小さい時に思いこんだ思いこみは大人になっても、簡単には変えられません。勝手に作った自分の思いこみの呪縛から解かれたくて、早々に家を出ましたが、そんな事で変わるわけがありませんし、また離れれば離れる程、親の事は気になるし親のやり方をそのまま踏襲している苦しい自分にも会い ました。
母は泣けないので、いつも怒っていました。泣いていたのはいつも背中でだけでした。怒る事で自分の苦しい気持ちを隠したり諦めたりして何とか日常を、やり過ごしていたのだと思います。そんな母の気持ちを察して何とかしたいと思っても子供の私はどうしてあげる事も出来ませんでした。大人になった今でも誰かに対して、守って上げられなかった、自分は何もしてあげられなかった、という気持ちと、自分は出来ないんだ、無能なんだという気持ちにすぐ乗っ取られて、固まってしまいます。誰かの思惑を基準にして決めて来たという事は、逆に言えば人任せという事なのですが、今でも自分で決めていいなんて思えません。そんなことを言われても、正直困ったぁ、という感じです。もちろん大きな事は自分で決 めてきました。むしろ、その呪縛から逃れたくて乱暴な決断をして来た事もあります。
母の寂しさを充分知りながら家を出る時、怒りと悲しみが、ない交ぜになった母の背中に泣きながら手を合わせて謝った事は、20年以上経った今でも忘れる事が出来ません。あんなに、怒ってばかりいた母が70も半ばを過ぎてから漸く「ウンウン」と話しを聞いてくれる様になりました。ちょっと困った話しを聞いてもらおうとすると、聞いていられず全然違う天気の話しをしようとするのは相変わらずですが…
今度電話した時、母に聞いてみようと思います。「もうそろそろ、自分で決めていいかって?」(まだそんなこと言ってるし)母は「ウンウン」て言うでしょうか? それとも口癖の、「(オレの気持ちのわがんねえのは� �勝手にしろ、」と言うでしょうか?
千の風になって
千の風になって
ぼくのお墓の前で 悲しまないでく ださい
そこにぼくはいません 眠ってなん かいません
ぼくは大空を吹きわたる千の風
ダイヤのようにきらめく雪の結晶
麦畑に実りをもたらす日の光
人の心に優しく降りそそぐ秋の雨
朝は鳥になって あなたを目覚めさ せ
夜には星になって あなたを見守る
ぼくのお墓の前で 泣かないでくだ さい
そこにぼくはいません 死んではい ないのだから
Mary Elizabeth Frye(1932年作)
今年の5月25日、私は大切な人とお別れしました。彼は17歳という一生を笑顔で乗り切っていきました。生まれながら病気を持っていた彼でしたが、鉄道が大好きで、パソコンが大好きなとても明るい人でした。そしてとてもやさしい子でした。亡くなる時も、一度、息を引き取った後、もう一度息を吹き返してくれて、たくさんのひとに「さよなら」を言わせてくれました。そのおかげで私も彼に会えました。彼の様態が良くないと聞いて急いで病院に行った時、私は何を言っていいのかわかりませんでした。口をついて出た言葉は「早く元気になってね。9月になったら電車に乗ろうよ」でした。彼は意識が朦朧とする中、酸素マスクをしているので唇が乾燥して痛々しい姿でした。こんな苦しい思いをするなら、肉体を離れ た方が楽になれるって頭で分かっているのに…。せっかくお別れをしようという人に未練が残るようなことばかり言ってしまうのです。なんてバカなんだろう。でも言わずにはいられなかったのです。その日はそのままうちに帰りました。そして次の日の早朝電話が鳴りました。もう午前中までもたないかもということだったので、急いで病院に駆けつけたのでした。
私は、ずっと傍にいたくて、ご両親の方も私がそこにいてもいいと言ってくださったので、亡くなる前の数時間を共に過ごすことが出来ました。その時間は私にとって本当に貴重なかけがえのない時間でした。とても苦しそうなんですが、呼ばれるとちゃんと「はい」と答えて目を開けてくれるHくん。でも時々返事をしてくれない時がありました。するとお母さん もお父さんも慌てて何回も名前を呼ぶと「うるさいなぁ」と言って目を開けます。私たちはその言葉に苦笑しながらもホット胸をなで下ろすのでした。もう視野が狭くなってお母さんの姿が見えなくなると、すぐに目で探しているような感じがしたので、「お母さんはここのいるよ」と教えてあげたり、「今は洗濯物を取りに行ったよ」とか、「お父さんは今トイレに行ってるからすぐ戻ってくるよ」とか話しかけていました。足の方にいる時は少し涙が止まっていられるのですが、お父さんも、もう何か話すたびに涙が止まらないようでした。私も彼が見えるように顔を近づけて「大好きだよ」という度に、涙で何も見えなくなっていました。
この日は運動会後の代休だったので、学校の先生がたくさんお見舞いに来てくれました 。一番印象に残った先生は教頭先生の時でした。はじめ、その先生が入ってくるととても硬い感じがして何だか周りの空気まで緊張した感じがしました。それでも「Hちゃん、教頭先生だよ」とか何とか私が話しかけていると、教頭先生もベットの反対側から顔を近づけてくれました。そして彼の好きなことが話題になり、それをきっかけに、教頭先生が話しかけ始めたのです。
彼はこの4月に高校生になりました。入学前の面接の時にこの教頭先生に自分の夢をたくさん語ったんだそうです。先生が顔を近づけ「教頭先生だよ、わかるか」と話しかけると彼が、「あぅっうん、あぅっうん」と息だけで何かを話し始めました。たぶん夢の話しだったのではないでしょうか。一生懸命に話していました。それを聞きながら教頭先生は みるみる目から涙が流れ始め、さっきの緊張感がなくなり、「面接の時、たくさん夢を語ったんだよな」と声をかけながら泣いていました。お父さんもお母さんも私も周りにいる人たちみんながその姿を見て泣いてしまいました。
そして私はその時ある光景を思い出していました。それはちょうど半年前の10月頃、H君も含めてみんなでバーベキューをしていた時、燃える灰を見て、「僕のトモダチが火事で死んでしまったことを思い出してしまいました。死んだらみんな灰になってしまうんですね」と突然に言い始めたのです。お母さん達はどきっとして話題を変えようとしました。普段泣き言やつらさをあまり口にする彼ではなかったし、私もWさんも急だったのでビックリして顔を見合わせてしまいました。そして彼は更に 「夢は叶うのでしょうか」と言ったので、これは真剣に受け止めたいと思い必死に答えました。「叶うこともそれは大切だけれども、夢の過程も大切だと思うよ」と。精一杯答えたつもりでしたが、今考えるとしろどもどろでずいぶん背伸びをした気がします。あのとき彼はどう思って私の話を聞いたのでしょう…。
それから女の先生がお見舞いにやってきました。その先生はHくんに「大丈夫」と声をかけていました。すると何となくH君がホットしたような気がしました。その様子をみて、直感的に、「大丈夫だよ」それが彼に聞きたかった言葉だったのではないかと思いました。だから私も「大好き」の後に「大丈夫だよ」を付け加えて言うことにしました。でも今考えてみても私の「大丈夫」は空元気のようで、安心感より 「本当にそうなの?!」と言われていたような気がします。大好きはしっかり伝わっていると思うけど…。
そして、お母さんが「H、大好きだよ。お母さんの可愛いH]と声をかけたり、乾いた唇にグリセリンを塗ってあげると少し楽そうでした。いろいろやってあげたいのだけれどやってあげてもいいことなのか素人の私たちにはなかなか判断が付かず、傍にいて困ってしまいました。唇はやって良かったなと今でも思います。私は別れ際、「お母さんもお父さんも大丈夫だよ」と言ってしまったけれど、まだ全然大丈夫ではないので嘘付いてしまったような後悔があります。でもお父さんも、お母さんも一所懸命に生きています。許してくれるかな。お兄ちゃんも何とかやっているよ。セッションの度にお兄ちゃんの顔を見ては その表情にH君の面影を見てまだ泣いている私の涙を拭いてくれています。やっと半年経って、落ちついてきました。この間お兄ちゃんがやってきて私たちがお兄ちゃんの身体をさすっていたらすごく可愛い詩を作ったんだよ。H君も聞いててね。
お日さまが 見ているから ちょっとハズカシイ
ほっぺにチュ
けんかをしたら ほっぺにチュ
すごく可愛いですよね。私も喧嘩をしたらこの手で仲直りをしたいなぁ。でもお日さまが見てなくてもハズカシイわ…。ちょっと。
Hくんはきっと千の風になって自由に駆けめぐっているんだろうな。私の結ちゃんやいっちゃんも一緒かな?そう信じたいです。
『千の風になって』という詩が最近話題になっています。興味のある方は是非読んでみてくださいね。なんかちょっとそうかなって思えますよ。 ある日の"おはよむ"(読み聞かせサークル)のことです。その日は1年△組です。教室に行って「おはよむだよー」と声をかけても、何だかワサワサ、ガサガサしてる。私の周りにも1/3くらいは寄ってこない。てんでバラバラに好き勝手なことをしている。「まあ、なんという落ち着きのないクラス!」と思い ながら、それでも、私の前に座って待っている子どもたちがいるので読み始めました。
秋ですね・・・そして10月
19年前の10月は母との別れでした。14年前の10月は、父との別れでした。そして4年前の10月は、愛犬タロウとの別れでした。どういう訳か私の家族との別れはいつも10月でした。
そのタロウは12年間家の中で一緒に暮らしましたので、まさに家族の一員でした。4年前にタロウが亡くなる少し前からちょうど私は仕事関係でのむづかしい人間関係にほとほとまいっていました。それで、私の気持ちはそちらに抜き取られたようにぼーっと過ごしていましたので、亡くなる日の朝まで私はタロウの異変に何一つ気づいてやれなかったのです。2年ほど前からは心臓を患っていましたので最後は急に悪くなったのですが、それでも亡くなる前の夜はめずらしく食事を戻していましたので、注意してみてやればきっ� �他にもサインはあったのでは・・・と悔やみました。私は自分の気持ちがそこにあらずで、最後の時をゆっくりとタロウへ気持ちを向けてやれなかったことでずいぶん自分を責めました。ごめんねと何度も謝りながら、冷たくなったタロウを抱いて一晩一緒に眠りました。
ただいてくれることでどんなに多くのものを私は受け取っていたのか、いるのがあたり前になって過ごしてきた相手がいなくなって初めてその存在の大きさに気づきました。何日たっても失った悲しさは少しも変わりませんでしたが、しばらくした頃から私の中で、ちょっと変化が起こりました。決してタロウは私のことを責めてなんかいないと思えるようになったのです。責めるどころかすごく大きなプレゼントを置いていってくれた事に気づきました。そ� �は、いろいろなことに気持ちを振り回されて、今ここにあらずになってしまわないでね。大事なことは、今ここに掛け替えのない大事な人がいるってこと。そして今を一緒に生きていることのしあわせだよ。というようなメッセージを私と家族に残してくれていったように思います。先を思い煩うことも、過ぎた事をくよくよすることも、外野の雑音も、ほんの少しだけ、たいしたことじゃないように思えてきて私の中の何かが軽くなってきたように思います。
秋ですね。急に冷えてきました。あったかさが恋しくなってきましたね。
皆さん、どうぞ目の前のあなたの大事なかけがえのない存在を、ぎゅーっと抱きしめてみてくださいね。
春の足音が聞こえてきました
今日も又、 和く輪く舎にたくさんの方々が、抱っこや天心を通じて、心を通わせたり、自分自身の魂を輝かせているのでしょう。中にはまだここに来るのが1、2回目で少しどきどきしている方もいらっしゃるかもしれませんね。また今はもうおうちでの抱っこが中心になりながら、これを読んでいる方もいらっしゃいますよね。いかががお過ごしですか? 私の友人が「書くのって大変だけど頭の中を整理できて節目になっていい」と言っていました。小さな幸せや出来事、是非書いて送ってくださいね。
私はといえば、暮れから今年にかけてたくさんのことがいっぺんに起こって整理がつかないでいます。正直言って「なんて書いたらいいかわからない」そんな心境です。
まず暮れに妊娠がわかって嬉しかったこと、でも又流産� �なるんじゃないかと怖かったこと、妊娠の確認に病院に行ったら、ついでにガンの検査をやらされてしまい数時間後に出血してもっと怖くなったこと、私が元気なときはうまくつきあえていた主人の祖母との間で、主人の取り合いになり、祖母の存在が重荷になったと感じたこと、それがいやで実家に身を寄せると、今度は父への怒りが沸々とわいてきて、お世話になってサポートしてもらっているにもかかわらず、怒りをぶち当ててしまう繰り返し。それから実家にいる私の祖母に今までにない嫌悪感を覚えたり・・・。
結局妊娠も、状況が自分が思っているよりどんどん悪くなっていき、流産ならまだいいという心境にまでなっていきました。でもそうはいかず子宮外妊娠とわかり手術することになりました。検査だっていい� �んじゃないし、手術もすごく怖かったです。心に描く最悪なことばかりが現実になって、どんどん坂道を転がっていく感じでした。
でもその時々は、確かにつらいのですが、だからといって不幸のどん底かと言えば、意外とそうではない自分がいたりするのです。心が二つになった気分です。
大きな問題を二人で乗り越えていっているという満足感が、夫との関係をより深めたのも確かでした。声を聞いただけで感情が飛び出てくる友人をみつけたり、悲しみはあると知っていて、元気にしている私にあえて寄り添ってもらっている心地よさを教えてくれた友人(いつも私が抱っこをつきあっているのに、私より抱っこを知って私より抱っこがうまい!それも又嬉しいことなんです)がいたり、3年前に流産したとき、つ� ��たての向こうで出産しているのをじっと聞きながら自分の手術を待った経験をちゃんと「いやでした」と先生に言えたのも収穫でした。病院に入院してからも、先生とコミュニケーションがとれ、自分のペースで処置が進められたので覚悟が決まってから手術にのぞむことができました。看護婦さんにもいろいろな人がいました。包んでくれるような暖かさにホッとしたり、仕事はできそうだけれど、その人に世話をしてもらうと緊張する私がいるのを発見して、ほんのちょっとしたことだけど看護婦さんの対応ひとつで大きく心を動かすのだなと実感しました。
病院の外にいると「たくさんの人たちがいとも簡単に子どもを産んでいるのに、私だけ何で!?」という気持ちがもたげてきたけれど、病院の中に入るとたくさんの人� ��いてそれぞれ大変さを抱えているんだと改めて思ったり、他の人より手術後の回復が「私の方が早い」なんて思って病院に来てまで競争している自分に苦笑してしまったり・・・。(本当、子どもの時から染みついた事ってなかなかとれないですね)
それからよく「生まれることなく逝ってしまった小さな命たちにたくさんの学びをありがとう」という気持ちで呼吸をしてみたり、「私と同じ思いで、悲しみの中にいるお母さんたち」と心の中でつながって「そういう思いってあるよね」と共感しながら呼吸する時間も取りました。そうするとなんだか心が落ち着くのです。
母とたわいもないメールのやりとりが楽しかったり・・・。17年前、母が大病して大きな手術をしたことを初めて話すことができました。母は ずっとそのときの話しをしませんでした。でも私の手術をきっかけに共通の話題ができ、そのときの母の心境が聞けたのも嬉しいことでした。
夫はひとりで大変そうでしたが、1ヶ月も実家で甘えて過ごしました。父への怒りはなかなか収まらないので、「コア探し」をしました。「父のありのままを認められない私」はその「父にありのままを認めて欲しかった」のです。なんてこと!わかったら少し落ち着きました。それから早速父に手紙を書きました。「1ヶ月お世話になりました」と感謝の気持ちと共にね。内容は、『まだ父への怒りは収まりませんが、これは小さいときにあなたからありのままを認めて欲しかった小さな私が騒いでいること。その私を癒して成長させるのはもうあなたではなく、大人になった私の役目 であること。もしかしたらそうできなかった父も小さい時、私と同じように「ありのままでいい」と思えていなかったのではないかということ。そしてきっといつか私が父のことを「ありのままでいいよ」と言える日が来るから』と書きました。まだ怒りはある。とてつもなく大きな怒りなんだけど、手紙を書くことによって少し楽になりました。我ながらすごいこと宣言したなぁと思うんです。親にもらえなくても親がそれを持ってなくても、逆に子どもがそれを取り戻して親にあげるなんて!
私の友人が、
この人もきっと生きることの深い悲しみを知っている
生きることの深い悲しみを私も知っている
この人もきっと悲しみを喜びに変える力を持っている
悲しみを喜びに変える力を私も� �っている
と書いた手紙を送ってくれました。抱っこの仲間でいつも私のこと「大好きだよ」って言ってくれる大切な友達です。今回のことで行けなかった抱っこ法の研修会の時のテーマだったそうです。
私は「この人も生きることの深い悲しみを知っている。生きることの深い悲しみを私も知っている」とこの言葉をつぶやきながらかみ砕いて飲み込むと身体の中に広がっていく感じがしました。そして最後の「悲しみを喜びに変える力を私も持っている」のところに来ると力がわいてくる感じがしました。大げさに聞こえるかもしれませんが、本当です。生きていると、思ってもみないいろいろなことが起こるものですね。喜びは多いに越したことがないけれど、悲しみだってそう悪いものじゃないみたいですね 。身をもって体験できました。
他にもたくさんのことがでてきました。まず夢。ある時すごくリアルな夢を見ました。夢の中で「何で2人も子どもがだめになったかわかる?」と言われたのです。私が「何で?」と聞くと「向こうの部屋のせいだよ」というので思い当たった「あの部屋のこと」と聞くと「違うよ」というのです。でも夢の中で「じゃぁどこ?」と聞いたところで目が覚めてしまったのです。がーん最後まで聞けなかった!起きてから私は「どこ?いったいどこなの?」とパニックになりました。それから私の中では「向こうの部屋」探しが始まっています。「いったいどこなんでしょう?」
それから手術で卵管を1つ取ったので、身体のバランスも今までとは変わってくると思います。しばらく取ったとこ� �ががらんとあいている喪失感が続きました。次の赤ちゃんが来たときその赤ちゃんが困らないように身体を整えておきたいなと思います。あっという間の逝ってしまったけれど、前回流産した赤ちゃんは悲しみと人の愛を、今回きた赤ちゃんは力強さと希望など、やっぱりたくさんのものを置いていってくれました。でも生まれてきた赤ちゃんの温かくて柔らかい感触もやっぱり味わってみたいですね。生まれてからもいろいろあると思うけれど、やっぱり抱っこしてみたいです。どんなことがあってもこうやって乗り越えていくのでしょうね。
今日 和く輪く舎に来たら、そこにいたKさんが私を抱きしめてくれました。それはそれは温かい抱っこでした。ジェットコースターのように私の心に飛び込むのではなく、ふわっと春のように温かい抱っこ。私の心の奥にある悲しみがじんわり出てきて、「いいの?いいの?出て来てもいいの?」って喜んでいました。頑張って頑張って精も根も尽きた人が、自分を取り戻すことができるような温かい抱っこでした。私もこんな抱っこがしたいなと思いました。そして私とKさんの間に蒔かれていた心のつながりの芽がどんどん大きくなっていく感じがいました。私は心の中で「いっちゃん、ここにもちゃんとあなたの芽が顔を出しているよ。ありがとう」といいました(おなかの子をいっちゃんと呼んでいました)。
「Kさんもありがと� �、そしてRちゃん、ママを貸してくれてありがとう」
昨日、川の土手を歩いていたら寒さに首をすくめたように地面にピッタリとくっついた小さなタンポポがいくつも咲いているのを見つけました。まだ寒いけれど着実に春は近づいているようです。皆さんの周りにもきっと春の足音は近づいてきていますよ。
忙しい日々から
ここ一年ぐらいの私は、かなり忙しく過ごしています。和く輪く舎には週一回来ていますが、その他の仕事先が増えたのです。
さらにその前の一年は、ひまでひまでどうしようもないくらいだったのですが、人生、本当に何があるか分からないもので、今度は忙しくて忙しくてどうしようもなくなってしまいました。
仕事が増えることになった当初、私は喜んでいました。新しく出会う人たちともうまくやっていこうと、ドキドキしながら張り切っていました。しかしです・・・
昔から私は、例えば"新聞のセールスをうまく断れずに結局いつもハンコを押してしまう"といった「頼まれたら断れない」ところがあって、「忙しくてどうしようもない」日々というのは同時に、"私� ��頼みごとをしてくる人たち"と"それをうまく断れない自分"に対して、悩んだり、腹を立てたりする日々、ということにもなってきていました。
本当に世間一般というのはこういうものなのか、まあそれはどうか分かりませんが、新しい仕事先のひとつには、私に頼みごとをするときは「本当に困ってます」「あなたにしか頼めないのです」という感じで、私のほうが「こっちもアップアップしてるけど、このままじゃ職場全体がうまくいかなくなるのだなあ、この人も困っているようだし」と思って、一回「ウン」と言ってしまったら「しめた」「あー、よかった」とばかりに「もうあとは、Oさん、自分でどうにかして」、そんな雰囲気を感じていました。
ある時は、私がやむなく引き受けた仕事で、その下準備を仕 事先の人がやってくれるはずだったのに、繰り返し何度催促してもやってくれず、ついに締め切り直前になってしまい、私がひどく激怒する、ということがありました。「頼むだけ頼んでおいて、こんなので仕事できると思っているのか!」「私が怒らないと思っているのか?」と電話口で怒鳴りまくっていましたが、「怒鳴られているほうも中間管理職でしんどい仕事を強いられているんだよなあ」などとだんだん冷静になってきて、電話を切るときには「つい怒ってしまいましたが、どうぞ気を落とさないで下さい」などと言ってました。
「人がよいことをいいことに・・・」などと思っている矢先に、仕事以外でもこんなことが起こりました。私は音楽大学出身で現在も音楽活動を続けていますが、音大時代の友人が結婚をす ることになり、その新郎から「披露宴で何か演奏をしてくれる人はいないかと元クラスメートに2〜3人声をかけてみたけれど、誰も引き受けてくれない。Oが何人か集めてみんなで何かやってくれないか」という頼みごとを、式の2週間ぐらい前に急にされたのです。その引き受けてくれなかったという2〜3人は、演奏活動で生計を立てているような人たちで、すぐにでもそれなりの演奏ができるはずなのに、何で断るんだろうか?とちょっとおかしいと思いながらも、しかし一生に一度のことでこの友人に残念な思いをさせたくはないと、私は仕事のことを気にしながらも、仕方なく引き受けてしまいました。
さっそく披露宴に来ることになっている元クラスメートに連絡を取ってみましたが、「練習するひまがない」と言っ て、誰一人引き受けてくれません。「ひまのなさでは私は決して負けないんだけど・・・」などと思いながら、しかし誰も何もしないというのでは新郎があまりに気の毒だと思っていたら、新郎からも「O、どうにかしてくれ、よろしく」みたいなメールが来てしまい、あまりにひどい元クラスメートたちに腹を立てながらも、私は覚悟を決めて一人で演奏することにしました。ちょっとやけくそになっていました。
その結果、披露宴での私のピアノ演奏は自分では本当に納得のいかないものになりました。もう2ヶ月くらいはまったくピアノに触れない日々が続いていたのであたりまえなのですが、思うように弾けていない違和感だらけでした。もっとも、新郎は喜んでくれて、何度もお礼を言ってくれましたが、私はそれを受け 取れずにいました。そんな私の様子から、かえって新郎に「Oに悪いことをしたなあ」と思わせてしまったかもしれません。
さて、そうこうするうちに、今度はひょんなことで私が人を苦しめてしまうことになりました。仕事先で「今さっき自分は仕事をうまくできなかったんだ」と私に話してくれる人がいて、私は「あなたに実力がないからじゃないよ、大丈夫だよ」というようなつもりで(その人が先週の同じ曜日に休んでいたのは知っていたので)、「先週休んじゃったからね」とことばを返したら、その一言でその人はもっと苦しくなってしまい、その日はもう職場にいられなくなってしまう、ということがありました。
実は、その人は最近仕事を休みがちになっていたのだと、後で知りました。「私の一言で苦し� �てしまった、これがきっかけで職場に来られなくなったらどうしよう」と、私はひどく不安になってしまい、仕事が手に付かないくらいになっていました。これはいけない、どうにか気持ちに整理をつけようと、「そうだ、コア探しをやってみよう」と思い立ちました。
「人を苦しめてしまい、どうしよう?」という気持ちをスタートに決め、自分の体に注意を向けると、すぐ両肩をすくめるように力を入れているのに気付きました。「あっ!自分を守ろうとしている!」と、ほんの数秒でさらに気付き、苦しめてしまった相手のことよりも、自分のことを守ろうとしている自分にまず苦笑してしまいました。でも、すぐ次の瞬間、「そうか、仕事先で都合のよい頼みごとをする人も、友人の結婚式で演奏を断った元クラスメート� �、今の私と同じように自分を守るのに必死なんだ」とつながって感じられてきたのです。
「自分を守るのに必死」・・・「みんな何とか生きていこうとしているんだ」「生きるのに必死なんだ」「みんな生きたいんだ」ということばが一瞬に思い浮かび、そこで涙がこぼれてきました。むしろ「どんな手を使ってでも、自分を守ってなんとか生きていきたい」ということを、すばらしいことだ、美しいことだと肯定できる気持ちになっていました。仕事先の人のことも元クラスメートのことも「許す」どころか、人間の持っている本来の"すごさ"を教えてくれ、私に元気を与えてくれているように感じられてきました。
それから数日間は、不思議なことに、町を歩いていて、すれちがう見知らぬ人たちからも「きっとこの� ��も何とか生きていこうとしているんだなあ」というのが感じられて、すごく暖かい気持ちになれるほどになっていました。
その後、「かといって、みんな自分だけ生きていこうとしたら世の中どうなってしまうんだ?」という異論も自分の中に出てきましたが、そのあたりでまたそのうち、新たに気付くことができる体験が、私に起こってくるのかもしれません。
30年前の思いを解き放ちました
孫のNは6月半ば扁桃腺とアデノイドを取る手術をしました。Nは生まれつき鼻腔が狭いという問題を持っていて、起きている時でもいびきをかいているような呼吸の音をさせていました。そして寝るときも苦しそうにして、充分睡眠がとれない子でした。
sataurday ·ナイト·フィーバー
現在は呼吸が楽になってすやすやと眠れるようになり、ずーっと同じ姿勢で眠っているNを「手術をしてよかった」と安心して見ていられるようになりました。
5月のゴールデンウイークに「一ヶ月遅れのお誕生会をするから来てね」と連絡がありましたが、その後Nが体調を崩して計画倒れに終わりそうでした。私は折角休みなので娘の手助けにと思って出かけましたが、いつもはにこやかな笑顔のNが、その時はひどく痩せて元気がなくなっていました。お腹に来る風邪をひいてしまっていて、1ヶ月以上会わない間に変わってしまった様子に驚きました。
ばあちゃん(私のことです)が来たというので彼のご両親も来てくださって、孫の1才の誕生日を簡単な食事でお祝いしまし� �。その後でNの体調があまりに良くないので、今後どうしたものかと話し合いました。彼のご両親も風邪で保育園へ行けないNを何日か預かって見て下さり、お義母さんは「もし私がNちゃんを育てたら育児ノイローゼになりそう。どうやって寝かせてあげたらいいのか分からないですものね」とおっしゃいました。
風邪がNの呼吸をもっと大変な状態にしていたのです。その日の夜泊まってその状態をを知りました。娘は慣れているのでどうにか眠れるのですが、私は慣れないので気になって眠れません。今日は寝ないで孫の面倒を見ようと決めて、どう寝かせたらよく眠れそうかいろいろ試してみました。うつ伏せが良いようなのですが、どうしても呼吸ができづらくなるので何度も何度も泣きました。頭の方から両肩を引き� �げて10pくらいあげて、頭を枕で支えているのが良いようでしたが、それも長くはダメでした。むずかるたびに抱き起こして「よしよし」とあやしていましたが、その内に抱いているほうが眠るように思えて何時間も抱いていました。
本当にNの体調は切羽詰まっていました。娘は1才で麻酔を受けることに躊躇していましたが、彼の方は自分も手術で睡眠時無呼吸症が直った経験があるので「手術で何とかなるのなら良い病院を探して受けよう」という考えでした。お母さんとしての決断が必要です。私は娘の母親として「今までよく頑張ったね。Nちゃんの育てにくさをみんなが分かってくれて協力してくれるから、後は専門家に任せて見ようよ」と話しました。
次の日も泊まってNを見守りました。一晩付き合って少 し慣れたので、寝かせられる時は寝かせて自分も少しはうとうと眠ることが出来ました。ところが何だか居心地が悪いのです。朝には血圧が上がったように頭がガーンとして気分も悪くなってしまいました。Nの風邪をもらってしまったのかと思いました。心配をかけてもいけないので夕飯の支度をして帰りました。家に帰って睡眠を充分とっても、頭の変な感じが直りません。「変だなー」と思っている内に、何だか涙がでてきました。
Nの呼吸の苦しそうな様子を思い出したのです。「苦しそうな様子を見ていられない!」という自分に気が付きました。でもそれは以前にも経験がありました。Nを娘と見守りながら、娘が小児喘息で大変だった時期を思い出して、「息の苦しそうな子をよく育てたね。ずーっと見守ったし、ち ゃんと付き合ったね」と私自身に言えたのでした。今回そんなことを言ってみても今日の私は納得しません。自分のことなのか娘のことなのかも分からなくて、すっかり「乗客に乗っ取られてしまった」状態から抜け出せなくなってしまったのです。
仕方がないのでお友達に手伝ってもらいました。話していても分からないくて、自分の「頭のガーンとした感じ」と付き合う事になりました。その内に思いがけない言葉が出てきました。30年前に言えなかった言葉「この子の苦しそうな様子を一緒に見てください!!」、それはお父さんである夫への言葉でした。夫は頼んだことはやってくれました。混雑する病院の予約を取ってくれたり、薬を待っていると随分時間がかかるので、仕事が終わってから取ってきてくれたり、夜中 も救急で病院へ連れていってくれたり、随分協力してもらえたのですが、「一緒に見て欲しい」とは言えませんでした。子どもを見るのは自分の役目だと思っていましたし、そんな思いがあったことにも気が付きませんでした。でも今それが言えたら、すっかり頭の変な感じは消え果てていました。「あぁー良かった。誰も責めることもなく傷つけることも無く、自分の中にあった思い残しを解き放つことが出来て。苦しみから解放された」と言う安堵の気持でいっぱいになりました。
孫のNは存在するだけで私にとって大きなプレゼントを次々とくれているのです。「ありがとう。あなたから大きな幸せを頂いて感謝しています」と心からお礼を言いました。そして同時に様々な出来事を、プレゼントとして受け取れる自分になっ ていることにも感謝せずにはいられませんでした。
ある日の保育から
相談室和く輪く舎の、ある日の保育でのことです。
3歳のFちゃんはとっても気配り屋さん、いつも周囲の雰囲気を敏感に感じ取りながらそこにいてくれるのがよく伝わってきます。今日は、一緒に保育に参加していたKちゃんがスタッフの腕の中でトロトロと気持ちよさそうにまどろんでいたので、私たちもできればそのまま寝かせてあげたいなと思っていたのですが、それをもうすっかり察知していて、遊んでいた電車の音がちょっとガチャッとする度に、はっとKちゃんの方を見て「起こしちゃったかな?」と心配そうな表情で遊びの手を止めていました。
もともととても静かに上手に遊べるFちゃんなのですが、時々電車を脱線させてみたり、やり方を知ってるのにわざと無理な� ��とをしようとしたり・・・とほんのささいな「あれっ?」が、Fちゃんの気持ちがちょっといっぱいになったサインです。「あー、今度は何が心配になったかなあ?Kちゃんのこと起こしちゃった、いけないって思っちゃったかな?」と言いながらスタッフが抱き寄せると、かわいく「アーン」とひと泣き。それですっきりしてひとしきり遊んでいると、またちょこっとサイン。「今度は何かな?ママのこと思い出して寂しくなっちゃったかな?そうだよね、もうたくさん待ったもんね、じゃあ、文句いっぱい言っちゃおうか」と言ってスタッフがわざとちょっと乱暴に言ってみると、「ママ早くー」「ママハヤクー」「もういっぱい待ちくたびれたよーう」「モウイッパイマチクタビレタヨーウ」「遅すぎるじゃないかー」「オソスギ� �ジャナイカー」と、Fちゃんもおなじ口調でスタッフの言った通りに、お母さんのいる2階を見上げながら大きな声で言ってみては、にこにこ顔。それでまたすっきりして落ち着いて遊び始めるFちゃんでした。
また、抱っこをしながら、Fちゃんの体をつんつんと指で軽くつついて戯れようとすると体中に力が入って、「痛い!痛い!」と身をよじるFちゃんでした。周りにいつも気配りしながらいい子でがんばっていてくれるFちゃんの張りつめた感じが、スタッフには伝わってくる気がしました。「そっかー、いつもいつも周りを気遣ってくれてありがとうね。お疲れさま、いっぱいなでなでしようね。よーしよし」といって体をさすっているととてもゆったりと身を任せて気持ちよさそうに横抱きされているFちゃんでし� �。あとから聞くと、なんとお母さんもちょうどおとなの癒しの集いで背中をなでてもらっていたとのこと、なーんだ、お母さんとFちゃん一緒だね、ママ譲りの気配り屋さんかな。
そしてお待ちかねの1時を過ぎたので、「Fちゃん、『もういいかい?』って呼んでみようか」とスタッフが誘うと、大きな声で2階に向かって「もういいかい?」とFちゃん。すると1回でタイミングよく「もういいいよ」と返事が返ってきたので、その時のFちゃんのうれしそうな顔、スタッフの方を見てニコッとするや、階段を一目散に上ってお母さんに飛びついていきました。
今日は3回目の保育でしたが、前回までと比べてスタッフにもお母さんにも格段に甘え上手になっていたFちゃんでした。そういえば、朝お母さんと別れるとき も、前回までは泣きたいのを我慢してがんばってバイバイをしていたFちゃんでしたが 今日は思いきりお母さんの胸で泣いていたFちゃんでしたものね。
やったね、お母さん、とっても甘え上手なFちゃんにしてあげられましたね。これからがますます楽しみですね。
また一人巣立ちました
もう20年も前のこと、私の母が悪性の脳腫瘍であることがわかったのは、三男が生まれて間もない頃でした。実家に帰省しての出産でしたので、上の二人の息子たちの時と同じように、母は私に代わって毎日三男をお風呂に入れてくれ、上の子たちの面倒も見てくれて、周囲から見るとまるでそれは、娘のお産の世話をちゃんと成し終えて…という感じでした。抱っこ法と出会った今なら、もっと違った母との別れの時間を大切に過ごせたと思いますが、20年前の私は、ゴールが死というような宣告を受け、徐々に意識も混濁していく母を前になすすべもなく、ただ苦しい気持ちを抱えて1年間を過ごしました。
そして母亡き後もしばらくの間は、季節の移り変わりさえも感じられぬまま毎日を過ごしていました。上の子� �ちは、もう幼稚園と小学校に上がっていましたので、日中は三男と二人きりになりましたが、おむつを替え、食事を食べさせるという世話があるから何とか動いていた私だったように思います。生後何ヶ月ぐらいからだったでしょうか、いつも寝るときは私のおなかの上に腹這いになっていましたし、その後も「もっとつっくいて(「くっついて」と言えなくて)、もっとつっくいて」といいながら私をたぐり寄せるようにして抱きついて眠りについていました。少し大きくなっても外出すればかたときも手を離せずにしがみついていましたし、とにかく「抱っこ、抱っこ」とくっついてくる子で、私の姉にはいつも「また抱っこしてる」と冷やかされて育ちました。
ずっとずっと後になり抱っこ法に出会ってから、お母さんのお� �かの上で寝る子は実はお母さんを抱っこしているのだと知るまでは、そんな三男のことをなんて甘えん坊でこわがりのくっつき虫なのかと長い間思いこんでいました。今から思えばずっとこの間、私の一番近くに常にいて、私のことを抱っこしてくれていたのだなあと思います。
そして、その三男がこの4月から大阪府豊能郡というところにある動物保護団体のARK〔アーク・アニマルレフュージ関西〕という所に就職しました(先日アークの活動がNHK教育テレビの「みんな生きているー動物たちの願いー」という番組になって放映されましたので、ご覧になられた方があるかもしれませんね)。就職といってもそのアークは特定非営利活動法人(NPO)で収入も極端に少なく、親としては「どうやって生活していくの?」という心配� �すぐによぎりました。ドッグトレーナーの学校に行っていましたから、ほかにも動物関係の仕事はあるのでは、と話してみても「待遇がいいからといってやりたくない仕事をやるの?」ときっぱりと言いきり、本人の思いは動きませんでした。いつも私の心配で、グラグラと息子たちを揺らしてきてしまったのですが、もう息子の方からそれをはねつけてすすんでいけるようになったことが、一方でうれしくもありました。
そしてまた、今回の三男の就職に当たっては、とても不思議な母とのつながりを感じずにはいられません。生まれ育った土地から一歩も出たことのなかった三男が、誰一人知らない場所に飛び込むことになった大阪という地は、亡き私の母が生まれ育った土地なのです。そして、仕事として選んだことは、晩� �母が動物福祉協会のボランティアとして、自宅に置ける限りの不幸な動物たちを預かり愛情をかけていた活動とまさに同じなのです。もちろん三男はおばあちゃんの生まれ育ったところが大阪だということも、そんなボランティア活動に力を注いでいたことも知りませんでした。というより、上の二人はおばあちゃんを覚えていますが三男には全くおばあちゃんの記憶さえないのですから。
さて、その母が今の三男のことを見ていったいどう思っているでしょうか? まさに自分と同じグラウンドにたっている三男に喜んでくれているでしょうか。それとも私を育てる中でもそうだったように、母自身の心配の渦の中で、「そんなことしててどうやって生活していくのよ」って眉をひそめているでしょうか。母が亡くなって20年� �くもたっているのですが、私の中の価値基準は依然母から受け取ったものに縛られていることが多くて、それからはずれると不安になったり間違っていていけないことをしているような気がしたりと、いまだに落ち着かなくなってザワザワと気持ちが騒ぐことがよくあります。
母は娘の私が今振り返ってみても、まじめでよく働き周囲の人の人望もあつく何事もよくこなした母だったと思います。でも母自身は、亡くなるまでこのままの私ではだめと、常に何かを探し求めていました。「この私でいい」と思えていない母から、また私自身も「そのままのあなたでいい」というメッセージはなかなか受け取れませんでした。私がどう感じているかとか、私がどうしたいと思っているかではなくて、常に価値基準は私の外にありまし� �。そして、その私の子育ても当然ながら「こう育てなければならない」に終始していたと思います。こう育てなければと私が躍起になればなるほど息子たちは、それぞれ三人三様にその枠からはみ出していくようでした。
抱っこ法を知る前の私はその様な息子たちを目の当たりにして、ますます自分がうまく子育てできていないことを責めていました。そして、「私はあんなに母の期待に応えて一生懸命いい子でがんばってきたのに、どうしてあななたたちは…」と苦しく思う日々でした。私が抱っこ法と出会ったのはもう3人の息子たちがずいぶん大きくなって子育ても終盤にさしかかった頃でしたから、自分のそれまでの子育てを振り返っては、多分に漏れず、できることならもう一度最初からやり直したいと思うことしきり� �した。でも、いくつになっていても遅くない、気づいたときがその時、なんて自分に言い聞かせながら、この3〜4年は、もう半分飛び立とうとしている三人の息子たちに、できるだけの肯定のメッセージを伝えながら一緒に過ごしてきたつもりです。果たしてどれくらいそれを伝えることができたかはわかりませんが、今は、三人がそれぞれに私の小さな堅い枠の「枠くずし」をやってくれていることが見えているので、ずいぶん楽になりました。
私は母の期待に応え、母の思い通りに振る舞うことで、母を喜ばせることもたくさんしてきたように思います。でも母の「こうあらねば…」という枠を崩してあげることはできず、最後まで母は、自分自身のことを誉めてあげることなく、亡くなってしまったことが、今の私には残� �で一番心残りなことなのです。それに対して、我が三人の息子たちは「こういう生き方もあるんだよ」と言わんばかりにパワフルに私の枠くずしをやってくれ、結果的に私をゆるめていってくれています。
そうはいってもこの「枠くずし」はやっぱり大変です。息子たちを見るにつけ、本当にこれでいいのだろうか、親として、もっと安全な方向に導かなくてはいけなかったのではないかと考え込むこともあります。今までの価値観が根底からグラグラ揺すぶられることもあれば、今まで入っていないといけないと思っていた枠の外へ丸ごと掘り出された様な気に陥ることもあって、その気持ちを抱え続けることは結構きついことでもあります。でも、そういうときのザワザワと落ち着かなくなった気持ちとつきあうのが少し上手になってきました。抱っこ法とめぐりあえ、天心とも出会わせていただき、自分の苦しい気持ちのからくりがみえてきたこと、そして何よりもおとな心をたてて自分自身のこども心をどう抱えていくか、とい うこと教えていただいたおかげです。
まだまだ、自分の心配な気持ちや否定的な気持ちに翻弄されそうにされそうになることはありますが、私が本当にしたいことは、以前のように丸ごと息子たちまで巻き込むことではないということには気づけています。私自身の心配や不安は自分で抱えつつも、息子たちを前に、「本当に私があなたたちに伝えたいメッセージはこっち!」と少しクリアになってきつつある自分自身をちょっとほめてあげようかなと思います。そう思うと、今はもう孫に対する気楽さも手伝って、眉をひそめていた母が、もしかしたら「いいのよそれで。若いんだから、何でもやってみればいいのよ、何でも経験、経験!」といってほほえんでくれているような気もしてきました。
こんないろいろなこと� �今の私に感じさせてくれた三男の巣立ちでした。
えっ、私を誉めてくれたかったの?
息子(小6)は先週金曜日から37.0℃の微熱が続いていました。我が家はお医者さんに行ったり、解熱剤を飲ませたりする事を選択しないで、自然治癒力を高める手当てをして、自分のもつ力で病気を治すという方法をとっています。
しかし、最近「怒りがあると発熱→泣いたり、怒ったり、大暴れした後平熱に下がる」というパターンが息子にはあることを発見しましたので(感情を解放しないと、どんな手当てをしても絶対に熱が下がらない)、今回も、前の晩の私の発言にむかっとしたのが原因だな、とすぐに思い当たりました。
こういう時は、抱っこ法以外何をしてもダメなのですが、私はとてもそんな体力も気力もなく(とにかくすごく激しく怒るので取っ� �み合いが1時間ぐらい必要)、話し合いで何とかならないかと、お互いの気持ちを伝えあいました。そしたら、息子は私の気持ちを誤解していたことがわかり、「そうだったのか」と互いに気持ちはつながりあい、仲直りしました。
これで、熱は下がるかな〜、と淡い期待を抱いたものの、やはり翌日も熱が下がらず、でも、取っ組み合いを避けたい私としては、けんかの原因(息子の生きがい、楽しみを侮辱した…息子談)になったことを償うべく、その事について「すごいね」「意欲的でいいね」とほめたり、私なりに協力したりしたのですが、熱は下がりません。
日曜日には家族で酵素風呂に入りに行き、すごく汗をかいたので治るかな?と思ったもののやはり治らず、(やっぱりね!)まあ、元気で機嫌もよく食欲もあ� ��し、ほっとくか、と思っていたら、月曜の朝には37.3℃に熱が上がっていて、咳もひどくなりこのままだとこじらすかな?という感じでした。
そこで、「どうしたら治りそうな気がする?甘えたい?気持ちを受けとめて欲しい?ほめて欲しい?優しくして欲しい?」などと聞いたところ、「お母さんを誉めたい」。ほめてもらうのではなく、ほめたいの?なんで侮辱された事を怒っているのが、それで気が済むのか?理屈は合わないものの、まあ、ほめてもらって損はなし、とひとしきり「すごいね、偉いね、天才だね、上手だね」、などと彼の言いたいように、ほめてもらいました。私をほめると「体がふわ〜っとする。すごく気分がいい!」そうで、その後登校して、帰宅した時には4日ぶりに36度(36.9℃)に熱は下� ��っていました。本人によると、朝学校に向かう途中からすごく良くなって咳もおさまってきたとのことです。めでたし!でも!?
結局、息子が発熱=怒り出したきっかけは、私が息子の生きがいを侮辱するような不用意な発言をしたことだったのですが、彼が本当に伝えたかったのは、「私が心配」「私を励ましたい」「私に元気を出して欲しい」ということだったのかな〜。と思います。結果から考えるとそういうことですよね?前にも阿部先生にそんな事言われましたね。
今回、熱を出してからいろいろ話し合ううちに、「私が元気がないのは自分のせいではないとわかっていても、それに対して何もしてあげられない自分に無力感を感じる、自分はダメなんだと思う」と言っていたので、「私をほめてあげる」事で彼 も満たされたのでしょうね。
いつも、「楽しさを分けてくれてありがとう、あなたを見ているだけでこっちもわくわくしてくるよ」と言って、息子の存在そのものに助けられているという感謝を十分に伝えているつもりなのですが、子どもってそんな風に思うのですね。
しかし!ハッと気づけば、まさに今私が元気を無くしているのも、息子と同じ「母を助けてあげられなかった」と言う罪悪感や無力感、私はダメな子だという信念に端を発している問題ではないか!・・・やっぱり親子♪ やっぱり問題は共有するのね☆
その日の夕飯の後、もう一度息子にほめてもらったのですが、「体がふわ〜っとして、もうこのままどうなってもいい、死んでしまってもいいと思うぐらい」すばらしい気持ちに満たされるそう� ��す。こういう気持ちは今までなった事がないそうです。例えば大好きなお寿司を食べたり、熱望していたおもちゃがもらえたりした時もこうはならない、と。死んでもいいなんて「そんな!?」ですが、「自分はこのために生まれてきたんだ、その役目を果す事ができて、もう今回の人生は充分だから死んでもいいということ?」ときいたら、「そう、この世に生まれたのはこの為だったとわかった。それができてうれしい」とのことでした。「それだったら私が死ぬまで死んではダメだね」と念を押しておきましたが、そのぐらい私をほめて安心したらしいです。
その直後熱を計ったら、平熱の36.4℃まで下がっていました。4日間下がらない微熱 37.3℃ →私をほめる(一回目)…36.9℃ → 私をほめる(2回 目)…36.4℃!こういう事もあるのですね。初めてのパターンでした。ちょっと珍しいかな?と思いお知らせしました。
孫と娘と私
長女のところに孫のNが生まれてもうすぐ1年が過ぎようとしています。2月のある日娘からの電話で、「Nが風邪をひいているの。きっと心配だからだと思うんだ」と連絡がありました。心配は保育園のことです。娘は赤ちゃんが生まれるときから産休と育児休暇を取って仕事を休んでいました。そしてそろそろ育児休暇が終わりに近付いたのです。
保育園入園の希望を出して、2月の末には返事が来るはずでしたが「まだ来なくて心配…」していたのです。間もなく入園の許可が出たので、胸をなで下ろしたのですが、3月の中頃仕事に復帰する前に、どうしても実家へ帰りたいと言って帰ってきました。
娘もいよいよ保育園へ入園することが現実になってNとこれからのことについて話し合わなくてはならないと感 じていたのでしょう。私もNと娘の気持ちが通い合って新しい出発ができることを願って、この日をずっと待っていました。
娘の子育ては予想以上に大変なことがありました。新生児からずーっと呼吸がしにくくて、起きているときでさえ「ガーゴー」と大人がいびきをかいているような音をさせていました。それによく泣く赤ちゃんでした。たびたび苦しそうに起きて泣くので、寝かせるのにも苦労していました。実家ではNのことさえみていれば良い状態でしたので昼間はずーっと抱いたままでした。赤ちゃんは抱いてさえいれば眠るので、自分の睡眠時間を減らしても抱っこしていました。私は時々娘の寝不足が心配で抱っこを代わりましたが赤ちゃんはお母さんを、娘も赤ちゃんを求めていることが分かりました。当然のこ とですが泣き方が違うものですから、「やっぱりお母さんじゃないとだめね」と娘に赤ちゃんを返すことになりました。「どうしてそんなに頑張れるの?」と娘に聞きますと、「明け方3時頃になれば必ず寝られることが分かったから、それまでなら頑張れる」と言うのです。生まれて3ヶ月間実家にいましたが、娘は母親としての自覚を持って過ごしていることが良く分かりましたので、「いいお母さんになっているよ。それでいいと思うよ」と励ましました。
赤ちゃんは安心を貯め込む時期ですし、なだめられて落ち着くことも大切なので、泣きやませる工夫もしてきました。阿部ご夫妻にもなだめる工夫の情報を集めて教えていただき助かりました。いろいろ試した結果、Nは縦揺れだと落ち着くことが分かって「よし、よし 」と軽い膝の屈伸を繰り返しました。それでも泣くときがありました。特に生まれた時間には不思議と泣くので「えんえんタイム」と名付けていました。
やっぱりその日も風邪気味で、熱っぽくなっていましたが、「気持を聞けば熱も下がると思うよ」と娘にNを抱っこするようにすすめました。案の定目を合わせません。娘も気が付いて「どうしたの。どうしてそっち向くの」と目を見ようとするとNは泣き出しました。
娘に「保育園へ行くことになった事情を話して」と言いましたが言葉になりません。「Nが大事。Nが大好き」と言って泣くばかりでした。お祖母ちゃんとしては孫も娘も大切で応援したいので、孫を抱いている娘の肩を抱いて応援しました。
その日の抱っこでは娘の代わりに、「Nちゃんと仕� ��を比べることは出来ないよ。お母さんにとってはかけがえのないNちゃんだからね。お母さんはお仕事をする生き方を選んだの。初めてのことだからどうなるか分からないけれど一緒に頑張ってみようね。寂しいときは寂しいと泣いてね。嫌なときはイヤだと泣いてね。いっぱい甘えていいんだよ」と話しました。しばらく泣いているNを「よし、よし」と見守っていましたが目が合うようになって、「見た、見た、分かってくれたみたいよ」と娘は嬉しくてまた泣いて、「いっしょだよ。何時でも一緒だよ。お仕事しても大好きだよ」と話しかけていました。「子どもは心配があったり言い分があって気持が通い合わないと目を合わせないことがあるから、そんな時は気持を聞いたり自分の気持ちを話したりしてね。こんなに違いがあ� �んだもんね」と話しました。娘も「随分違うね。よかった。分かってくれて」とホッとしていました。その後Nはおっぱいを飲んでぐっすり娘の腕の中で眠りました。
「お母さんがあなた達を育てている頃、こんな方法を知っていればどんなによかったかと思うよ。でも今からでも充分間に合うことだから、これから気持を大事にする子育てを応援するからね」と話しました。そして自分の子育ての後悔を娘に話しました。
私の子育てで一番の後悔は、知らず知らずの内に我慢することを教えてしまっていたことでした。それにはっきりと気が付いたのは、赤ちゃんが生まれて3ヶ月経って、自分たちの家へ帰るとき荷物の整理をしながら娘が、「涙が出る。何でだか涙が出る」と泣いていた時です。その気持ちを言葉で表� ��ないのです。今の気持を言葉で表すなら、「家に帰って一人で何もかもしなくてはならないと思うと不安だよ。もし何かあったらどうしよう。心配で心配でたまらない。お父さんやお母さんと別れるのも寂しいよ」と言うところでしょう。その様子を見て私は、「あー、この私が言葉にしてこなかったから」と言うショックと共に、反省と後悔の思いでいっぱいになりました。
嬉しいことや驚いたことは言葉にしてきましたが、嫌なこと辛いこと悔しいことはただ黙って我慢してきたように思います。「否定的な言葉は好ましくないし、自分が我慢すればいいのだから」とばかり思い込んできました。子ども達の辛い気持や悔しい思いを受けとめてきたとは思いますが、残念なことに言葉にすることは出来なかったし、してはいけ� ��いように思い込んでいました。それが普通のことのように…。
「お母さんはこのお仕事をして沢山のことを学んで、気持を伝えることがどんなに大切なことかが分かったの。こんなに遅くなったけれど、それをあなた達に伝えられて嬉しいと思っている。お母さんが見本を見せてこなかったから今すぐ上手に出来ないことだけれど、Nちゃんを育てながら少しずつ慣れていこうね。」と話しました。
訪れてくださるお母さんとお子さんの気持の仲立ちが出来て、気持が繋がって本来のすてきな親子の姿を見るに付け、「何時かは自分の娘達とも心が通い合って、何を話しても良いと安心させてあげられたらいいなー」と願い続けてきました。娘達にとっての私は、「うっかりしたことを言うと怒られる」存在だったのですか ら。娘達の子どもが生まれたときに必ず実現させたいと思ってきましたので、孫を抱っこする娘を私が抱っこすることが出来て本当に嬉しい日でした。これからも今まで出来なかった娘の抱っこを孫と一緒にできることを楽しみにしています。
そして孫の熱はすっかり治っていました。
「おおかみさん」と「まじょまじょさん」
最近和く輪く舎に来られた5歳のNちゃんとお母さんのすてきなお話を紹介させていただきます。初めての抱っこを体験されたお母さんが、2回目のセッションに来られたときにこんなお話をしてくださいました。
Nちゃんが困ったことをしたときに、「おおかみさんが○○○○と怒っているよ」とお母さんの代わりにおおかみさんに登場してもらうと、Nちゃんがすんなりと受け入れやすいようで、その後も、「お母さん、おおかみさんやっつけてきたよ。だからもういい子でしょう?」と早く気分が元に戻って素直にお母さんに甘えてくることができるというのです。
"夜が落ち"バックストリートボーイズファンフィクション
Nちゃんは小さいときから、感受性が豊かで、相手の言葉に傷ついてしまうことが多いお子さんだったようです。特に、否定されたりできないことを指摘されたりするような言葉にとても弱くて、かんしゃくを起こしたり、部屋の隅に逃げてしまい固まってしまうNちゃんでしたから、お母さんに注意されたり叱られたりしたときにも、なかなか立ちなおれなくて、気分を切り替えてお母さんに甘えていくことができにくいようでした。でも、いけないことを叱ったのはおおかみさんで、優しいお母さんは、いつもそこに自分を受け入れてくれる存在としていてくれると切り離して考えることができると、お母さんから自分自身をまるご� ��否定されたのではないということが、Nちゃんには受け取りやすかったのではないでしょうか。気分が切り替わりやすくなって、お母さんにも甘えていきやすくなったようです。そして、おおかみさんをやっつけてきたというのは、むしろNちゃん自身の中の気持ちの葛藤と戦ってきたということだったのかもしれませんね。
一方、お母さんとしても、Nちゃんの気持ちがいったん崩れるとなかなか元に戻りにくく、お母さんとのいい関係が取り戻しにくいことにとてもしんどさを感じておられたようです。もともとお母さんの生家は自営業をされていたこともあって、子供の頃にはいつも周りに大人がたくさんいて、お母さんに叱られても誰かが受け止めてくれるというふうに母親以外の人にも支えられて育った家庭環境だった� ��うです。それに対して、今はNちゃんと二人きりで向き合うことがほとんどで、一人でどんなNちゃんも受けとめるということがお母さんにとってはとても大変なことに感じられていたようです。それで、叱り役をおおかみさんに引き受けてもらうことで、お母さん自身がとても楽になったとおっしゃるのです。お母さんとしても、Nちゃんの行動に困っている自分の感情をおおかみさんに託すことによってその感情に振り回されず、無条件にかわいいと思う気持ちでNちゃんのことを受け止めやすく感じられたのではないでしょうか。
そして、この話をお母さんがされたあと、「でも1回だけ私が何も悪い事をしていないのに、おおかみさんが出てきた」とNちゃんから訴えがありました。以前から休日の朝はお父さんがNちゃ� ��の相手を担当し、お母さんはゆっくり休むという約束があったそうです。でもその日は、Nちゃんがお母さんにいろいろ言って行くのを、お父さんはこれ幸いにという感じでNちゃんに関わろうとしなかったので、お母さんは、いらいらがつのってきたそうです。それでNちゃんに向かって、「おおかみさんが、お母さんを休ませてあげなさいって怒ってるよ」になったそうです。おおかみさんの矛先が違っていて悲しかったことをちゃんと伝えられたNちゃんも、この時のことだと気づいてくださり「そうだよね、Nちゃんは何も悪くなかったよね、おおかみさんはお父さんに怒りたかったんだよね」とNちゃんの気持ちに寄りそっているお母さんもとてもすてきでした。 また初めての抱っこでNちゃんの中にいろいろな思いがある� �とに気付き、もっとたくさん気持ちを聞いてあげようと思われたお母さんは、夜寝る前にゆっくりとNちゃんのお話をきく時間も作られたそうです。そして、そこに登場するのがお母さん扮するまじょまじょさん。
まじょまじょさんは、Nちゃんのお話の中に入っていって何でもかなえてくれるのだそうです。そして、Nちゃんからのお話は、主にその日に、幼稚園で起きたお友達とのトラブルなどでNちゃんががまんしたことや気がかりになっていることなどが多かったようですが、それを聞いたまじょまじょさんは、「それは○○ちゃんがいけないね」などといってお話の中で○○ちゃんをやっつけてくれたりするのだそうです。そうすると、Nちゃんがとても穏やかないい表情になっていくのがわかってうれしいとお母さん� �話して下さいました。
以前、お母さんには、幼稚園でのトラブルを何とかしてあげたいと思って間に入り、かえっておおごとになった苦い経験もおありでしたから、幼稚園でつらいことがあったNちゃんをどう支えてあげたらいいのか困っておられたようです。でもまじょまじょさんになってお話の中でなら誰も傷付けることなく十分にNちゃんの思いに共感し慰めてあげられるのでお母さんもとても気持ちが楽になられたようです。
お母さんは、「おおかみさんもまじょまじょさんも、こんな子どもだましみたいなことがいつまで通用するかわかりませんけど・・・」とおっしゃっていましたが、私には決して子どもだましではなく、お母さんとNちゃんの無意識の知恵が働いて、それぞれの心を支えるとってもすてきな� ��らくりが潜んでいるように思えたお話でした。
「お母さん、来てくれてありがとう」
娘のKは三歳。相変わらず抱っこが大好きな甘えん坊に育っています。
子どもは皆、お母さんのことが大好きで、そのまんまのお母さんがいいと思っているのだと、よその親子を見ているとひしひしと感じるのですが、自分の事となるととてもそうとは思えません。お母さん大好き!としょっちゅうくっついてくる娘を抱きしめるのはとても心地いいのですが、苦しい思いをしていると、それをそのまま受け取ることができなくなり、あっち行って!と遠ざけてしまいます。
たまに私が仕事に出るときは、友人のAさんにベビーシッターに来てもらいます。Aさんは抱っこ法も知っていて、Kの気持ちに上手に寄り添ってくれる素敵な人です。だから帰宅すると、「� �ちゃん荒れていたよ」などと教えてくれます。二人きりでは泣かれると辛くなる私ですが、Aさんがいると、話しながら自然にKを抱いているし、Kの泣き声もきけるようになります。Kの涙を見ると、自分も泣けてきて、固くなった気持ちがほどける・・・ということはしょっちゅうです。
Aさんに見守られながら二人でひとしきり泣いたある夜のこと、娘のことが本当に愛しくて、「Kちゃん、生まれてきてくれてありがとう」と心から言いました。すると、「お母さんも、来てくれてありがとう」えっ?きたのはKちゃんじゃない・・・私はびっくりしました。
すると娘がこう言うのです。「お母さんはばあちゃんのおなかに来たでしょ」その言葉をきいたとき、私の心のなかに何かが満ちていく気がしました。私は� ��生まれてきて良かったと思ってはいるけれど、母との関係の中ではそれを肯定できていない気がしていました。私はあの母から生まれてきて良かったとは思えていないということです。裏返せばそれは、母から「あなたが来てくれて嬉しい」というメッセージを受け取れていないということになります。辛い苦しいことの多い母でした。それを幼い頃から側でみていた私は、自分が何の助けもできずむしろ苦しめているのでは、という思い込みを持って育ってしまったのだと思います。娘の一言で、私はまぎれもなく母から生まれたのだと実感し、そのことをありがとうと肯定してもらったことで、自分の中心にぽっかりあいた穴が埋まったようなそんな感覚を持ちました。
眠りにつくまでのひととき、娘からもらったことばを何� ��もくりかえして味わい、全身にいきわたらせてみました。
すると私は母に向かってその言葉を言いたくなったのです。「お母さん、ばあちゃんのおなかに来てくれてありがとう」と。生まれてよかったとは思えていないだろう母だけど、不思議とその言葉は受け入れてくれそうな気がしました。そして、もう亡くなってしまったけれど、やはり苦しい人だった祖母にたいしても「ばあちゃん、ひいばあちゃんのおなかに来てくれてありがとう」と伝えてみました。そうやって、順繰りじゅんぐりに上の世代に向かってありがとうを伝えていくと、みんなが一本の線でつながって、あたたかいものが流れていく気がしました。
娘は夫のことも気にかけていて、「お父さんはばあちゃんのおなかに来たんだよね」と言いました。 だから、夫の家族に対しても同じようにありがとうを伝えました。
娘の一言がきっかけで、私の両親、そのまた両親、ずっと上の世代へ・・・そして夫の両親とその上の世代へ・・・まるでドミノ倒しのコマのようにパタパタと「ありがとう」がつながっていきました。それはすばらしい感覚でした。たくさんのご先祖様が一挙に癒されてみんな笑顔になったような気がしました。子供ってそういう役割をもってこの世に来ているのかもしれないなと思いました。そして、いつもならそういう私の話をうんざりした表情で聞く夫が、珍しくしんみりときいてくれたことも嬉しいことでした。
そんな素敵な体験をしても、私はしょっちゅう怒ったり落ち込んだりして、娘に辛い思いをさせてしまいます。子どもを持ってみて改� �て気づいたのですが、私は本当に未熟な人間です。子どもを傷つけ、力を損なうようなそういう要素をたくさん持っていると思います。だから子どもを育てることが心底怖いです。でも、抱っこ法を知っているから何とかなるかな、とも思っています。だってそんなすてきなやりとりがあるのは、抱っこして二人でおいおい泣いて気持ちがまるくなったときがほとんどなのですから。迷いながら遠回りしながらだけど、娘がいてくれるおかげで少しずつ大切なことが見えてきます。
Kへ。本当に来てくれてありがとう。
母と乗客について話せるようになって
うちの母は、最近テルミーを始めたんですけど、そこで出会った人たちに、「自分のダメなところは努力して変えていかなければならない」というような事を言われて苦しくなってしまったそうです。そこでは何も言わなかったらしいけど、私に電話をかけてきてこういうんです。「ダメな自分も、嫌いな自分も、お母さんの一部で、理由があって一緒にバスに乗っているのだから、それをがんばって変えようとするのは、無理矢理降ろしてしまうみたいで何だかさびしい」
自己否定が強くて、生きているのが苦しくて辛いと言い続けていた母でしたが、こんな思いが芽生えていたなんて・・・私は嬉しくてたまりませんでした。
阿部先生のバスジャックの� ��とえが母には本当にわかりやすかったようで、最近ではお互いのバスの中に、どんな乗客がいるか、という話もできるんですよ。同じタイプの人がいるね、と確認しあったり、その人はいつ頃から乗ってきたかをききあったり、ひょっとしたらばあちゃんも同じだったかな、なんて今は亡き祖母のことを思ったりして結構盛り上がります。涙も流さず、ただ話しているだけなのに、不思議ですね。その時間はすごく癒された気がしました。
私が抱っこ法に出会って少し楽になった後は、母を何とかしたくて、時には強引にせまったりもしていましたが、母には母のペースがあることに気づき、私がしっかり自分に向き合うようになったら、本当に母は自分なりのやり方を見つけて、気づくといつのまにか側にいました。
夫に も同じ事が言えます。この前はあのカタイ人が、治療院でOリングテストを受けて来たんですよ。以前なら、「絶対あやしい!」と拒否されたのに・・・。体の治療を受けながら、自分の事を自ら話したりして・・・それを横で聞きながら、私は彼の新たな部分を発見してまた惹かれたし、これからも一緒にやっていこうという気持ちになれました。私が楽で、彼と仲良くしていると、Kはひとりでしあわせそうにしていて、見ているこっちまで楽しくなってしまいます。
とはいっても、表面的にはいろいろあるんですよ。昨日も結婚記念日だというのに喧嘩をしてしまって最悪でした。そういうときはKも不安そうだけど、また私たちが前に進みはじめると、それだけで大丈夫になるみたいです。
抱っこ法に出会ったおか� �で、私も私のまわりの人たちも、ずいぶん楽になりました。楽になっていたから、Kともしっかりつながれて、しあわせな時間をすごしていられます。本当にありがとうございます。
私も経験してきたことで、何か伝えられることはないかと思い始め、そろそろ自分のホームページを立ち上げようかと計画しているところです。そんなことも、実家で少し考えてきますね。
目からウロコ
ごぶさたしています。芳子さん、Faxありがとうございました。私も、お手紙でも書こうと思っていたところでした。というのは、今回の通信の阿部先生の文章がとてもわかりやすくて、身近な人たちに気持ちを伝えるのにとても役立っているからです。母もとてもわかりやすかったと申していました。
今まで私なりに「おとな心、こども心」の話をしてきたつもりだったのですが、実はいまひとつわかっていなかったらしいのです。今回の通信を読んで、"目からウロコ"だったそうです。そして、私が感情的になりすぎることをこれまで不安に思っていたようですが、どうしてそういう状態になるのか、が理解できたみたいで、私の不安定さを一方的にたしなめるということが少なくなってきました。それは、自己否定にど� �ぷりつかっている、今の私には、とてもありがたいことでした。それで、夫にもあの文章を読んでもらい、自分の気持ちを伝えるときに引用して説明したら、とてもうまくいったのです。
娘が生まれて、この上ないしあわせを感じているはずなのに、夫婦ゲンカが絶えない私たち…それは本当にささいな事から始まるのですが、最近では、ますます激しいケンカになり、何度も、もうダメだ、というところまでいきました。どちらかが一歩ゆずれば、うまくやれるのに、お互い余裕がないため、どちらもゆずれず、どうしようもない状態でした。ついこの間もそうやってケンカが始まりました。
日曜日の夕方から仕事に行きたいと言う彼…一番忙しい時にしかも週末くらい一緒にいてお風呂を手伝ってくれたらいいのに、と� ��ら立つ私…いつもならここで大ゲンカになり、彼がしぶしぶ行くのをやめたり、強引に出かけてしまって私がずっと泣いていたり、という結末になり、お互い気まずさをひきずって、また次のケンカに発展するのですが、その時は違いました。通信を読んでもらっていたので、「いやだ!行かないで!…って乗客が言ってるんだよ」「運転手は"行っていいです"って言っているんだけど、バスジャックされそうなんだよ」という風に伝えてみました。「乗客が言っているんだからね」と前置きしたあと、さんざん「行くなー!ひどいじゃないか!」とごねたら、私も落ちついてきて、"彼にとっては大切なことだから行かせてあげよう"と思えて、気持ちよく送り出すことができました。すると彼も、いつもなら娘にしかよしよししな� �のに、私のことも抱きしめてくれたのです。
そして不思議なことに、その後の娘の機嫌の良かったこと…。このところずっと、私がメソメソ泣いてばかりいたので娘はますます抱っこちゃんで、一人遊びをあまりしなくなっていました。でも、その夜は、眠りにつくまで終始、楽しそうで、見ているだけでしあわせな気分になれました。
娘が生まれるまでは、こういうやりとりができていたはずだったのに、子育てで余裕をなくし、私のおとな心がすっかり萎えてしまっていたのですね。通信のおかげで家庭崩壊の危機を回避することができて、本当に感謝しています、ありがとうございました。さすが阿部先生!!
それでは、くれぐれもお体を大切に。
結いの心
「抱っこ法ってなぁに?」 と聞かれて私が思い出した出来事は、私の母方の祖父が亡くなるとき母が、「父ちゃん、私父ちゃんの子でよかったよ。ありがとう。」と言うと、祖父はそれを聞いて、コントロールがつかない手で、でも確かに胸の前で合掌して「ありがとう」と言ったことです。母は涙をこらえながら、私に祖父との最期のやりとりを話し終えた後、「あなたが教えてくれたからおじいちゃんに言うことができたわ」とも言ってくれました。私は母と祖父の最期の様子を聞いて涙が出ました。いつも私は抱っこのセッションで感動したことがあると母に話してきました。きっと母なりに消化して自分の心の中に染み込ませていたのでしょう。さすが母だなぁと感心しました。
母の話をを出したのだから父も、なんて言うわけではないのですが、父 もすごいのです。どこの家庭でも多かれ少なかれ気がかりというか、家族の心配事がありますよね。私の家では弟のことでした。弟は小さいときからとても物静かで、両親を困らしたことのない子供でしたが、それが大きな問題となって姿を見せたのはつい3、4年前のことでした。もっと小さいうちだったら助け方も簡単だったのでしょうが、25歳を過ぎてからのことだったので、助けてあげたくてもどう助けてあげたらいいのかわからなくて、いつも心配がつきなくて、父も母もくたくたでした。彼と心が通じない。何を考えているのかわからない。どうしてこんなことが起きるのだろう。いつも疑問でした。
心配が始まって2,3年たったある日、珍しく深酒をして帰ってきた弟は「俺がこんなになったのはおめえらのせい だ」と暴れたのです。ちょうど私は留守でした。両親は荒れ狂った弟をみてとにかく止めなくてはと夜中、近所の目も気にせずに体で止めようとしたそうです。でも大きくなった弟の力は強く、両親は投げ飛ばされてはしがみつきを繰り返したそうです。この子は自分たちのかわいい子供とあきらめなかったんですって。後で様子を話してくれた母や父の姿を見るとかなりやり合ったなという感じでした。でも最後まであきらめずに父が「おまえがかわいい」「おまえがかわいい」と抱き続けたらスーっと力が抜けて寝てしまったのだそうです。「よくやったなぁ」親の愛情の深さに感心しました。
その夜のことはそれから一回もふれてないので、弟がそのことを覚えているか聞いてないのですが、それ以来、弟は変わりました。父 が庭で仕事をしていると黙ってお茶を入れて持っていったり、機嫌良く両親と話をしたり、母はその様子をを私に話す度とてもうれしそうです。また父も今まで男同士としてどう接していいのかわからなかったのが吹っ切れたようでした。姉として、弟に「おまえがかわいい」と言ってもらえて本当によかったと思いました。抱っこ法の心を知らなかったら、この二つの喜びは我が家に訪れたか疑問です。
そして最近、自分の母(私の祖母)のことを心配している母を後ろから私が抱きしめることができました。「やった!」私は自分をほめてあげたいと思いました。「もういいの」と言って逃げようとする母をちょっとひるみながらも抱き続けていると、「私は小さいときから母とこうしたかったんだ!」と気づきました。やっと ここまできました。「大事な人たちとつながること」それが抱っこ法の心だと私は思いました。
あえて心と付けたのは、抱っこ法というとなんとなく方法というか技法のような感じがしてしまいますが、気が付いてほしい心は日常にたくさん落ちている気がするのです。私の両親をみていて、やり方のいい悪いより、「おまえがかわいい。大事なんだ」とか「ありがとう」という心から湧き出る気持ちをストレートに伝えることなんだと知りました。でも心がつながり合うって簡単に言うけれどそれができなくてつらいということが多いですよね。いやいやそれよりも自分自身とつながっていないなんて思う人もいるかもしれませんね。私もやっと母と父と弟とほどけかかった心をつなげ始めたところですし、またこの自分自身とつ ながり合うというのも大変なことで、しょっちゅう見失っています。でもまぁのんびり楽しんでいこうと思います。
ここでちょっと私にとっての抱っこ法との出会いを紹介させてもらいます。私が初めて抱っこ法を知ったのは自閉症というハンディを抱えた人たちと出会ったのがきっかけでした。見た目はポーカーフェイスだったり、でたらめな行動をしていたり「何も感じてないのでは?」とか「何もわかってないのでは?」と誤解されがちの彼らですが、抱っこ法のセッションの中でいろいろなことを伝えてくれるのです。失礼な言い方ですが、彼らにも心があるのです。向上心も母親を思う気持ちも、勉強したい気持ちも、友達を思う気持ちも、優しさも、つらい気持ちも、自分が不甲斐ないという気持ちも、そして私より心 がきれいで、小さいときから生きづらかった分、かえって心の部分ではある意味大人でした。
私は抱っこ法があったからより深く彼らと接することも、学ぶこともできたのだと思います。そして彼らのやっていることと彼ら自身がやりたいことのギャップもわかるので、私もサポートすることができ、持ちつ持たれつの関係が成立しました。今の社会は障害者と健常者といって生きる場所を区別しているところがあるけれど、それではお互いに損をしていると思います。
現在、私の家に20歳になる方が週2回、1日7時間くらい過ごしています。ある日私は、とてもいらいらしていました。自分でも何でだろうと考えていたので表面的にはいつもと変わらずに一日を過ごしたのですが、心ここにあらずな状態だったと思い� �す。その日もその次の日また彼はいつも通り私の隣にいました。私はそれにはっと気がついて「Sくん、君は昨日もそうやっていつもと変わらず私のそばにいてくれたんだね」というと、「うん」と返事がありました。私は彼に抱っこされていたんだ!と思いました。そして私は癒されました。
だから私は抱っこ法って特別な技法ではない気がしてならないのです。ちょっとエッセンスを加えれば、やっぱり日常に転がっているような気がするのです。
話は変わりますがこの間、TVでネパールで行われる初秋の大祭「インドラ・ジャトラ」が紹介されていました。ネパールには「クマリ」という女の子の生き神様を信仰する習慣があります。汚れの知らない幼いうちに少女が生き神となり、国王まで膝ま付かせる力を持ち� ��ける7年間が終わると普通の人間に戻らなくてはいけないのだそうです。人間に戻った女の子は、7年というブランクを克服しなくてはいけません。勉強だって大変です。日常の中で、彼女は今まで一つも感じたことのない様々な感情を感じることになるのだそうです。人間になるということは感情を持つことで、「神と人間の違いは感情があるかないか」なのだそうです。私はそのことを聞いたとき、神には感情がないのだと、妙に納得した感じがありました。人間くさい人ってどこか憎めなくて味がありますよね。もしかして感情を感じて生きていくって味がでてくるってことかしら・・・それなら人間をやってもいいかなぁなんて思いました。
つらつらと思いつくままに書いてきましたが、最後にまた、「抱っこ法ってなぁに? 」と思うと、う〜んなんでしょうね?やはりつながることかなぁ・・・。あっ、幸せを見つける方法かな。日常の中に埋もれてしまって気がつかない大切なものを見つける(気がつく)きっかけになるものかな。私にとっての抱っこ法はそういうものでした。
しゃっくりが教えてくれたこと
先日の日曜日の朝、私と子ども(小2.男)は、体のやりとりで"遊びの抱っこ"をしていました。すると、子どもが急にしゃっくりをはじめました。それがとても唐突で変な感じだったので、何をしゃべっていたらしやっくりが始まったのか、あれこれ思い出してみました。「まーりん(私)が一馬(自分)のお尻をぶった時じゃない?」と子どもが思い出して、そのとたんに彼のしゃっくりが止まりました。
たしかに、私はふざけて子どものお尻をポンってしたけど、たたいたらしゃっくりが始まり、それを言い当てたとたんにぴたっと止まるなんて…。と私は子どもの体の反応の素直さにびっくりしました。「一馬はぶたれてずいぶんいやだったんだね」と言うと、「そうだよ、でも、 昔はもっとひどくぶたれたよね」と、そこから昔話になりました。
もっと子どもが小さかった頃のことです。私は天心に出会って自分の苦しみや怒りを体ごとあたたかくうけとめてもらうようになるまで、いけないとわかっていても、子どもを怒鳴ったり、たたいたりしないではいられないお母さんでした。子どもはその頃の事を思い出し「ぶたれていやだったんだよ」「今、しかえしをするんだ」と私をキックしながら怒り始めました。いつもならその足をつかんではりあい、彼の怒りをうけとめるところですが、私は、「ぶたれていやだたんだよ」といわれたとたん、筋弛緩剤を注射されたかと思うほど、体中の力がぬけて、子どものキックを止めることも全くできず、されるがままにけられ、うずくまってしまいました。
いつもの私はどうしたというのでしょう。子どもの気持ちをきくどころではありません。「子どもは私を責めているのではない、ただ苦しかった気持ちをきいてほしいだけなんだ」と頭ではよくわかっているし、「こうして訴えられることは素晴らしいことだ」と一生懸命思おうとするのですが、私の中の罪悪感がふくれあがり、もう心が苦しくて苦しくて、胸がコンクリの魂のように、息をするだけで精一杯という状態になってしまいました。はたで見ていたら、心臓の発作でも起こして、へにゃへにゃとくずおれたように見えたでしょう。
5年間抱っこをしてきて、こんなことは初めてで、どうしていいかわからなくなり、とにかく、つらい時は泣こう、と泣きました。「うわーんごめんねー。わーん私が悪いんだー」と� ��を出してオイオイ泣いたら少しスッキリしました。
次の日になって、なぜ私は「ぶたれていやだったよ」と言われた位であんなに苦しくなったのだろうと考えました。今までだって、子どもが私に怒ったり、大暴れしたことはさんざんあるのに。ただの罪悪感であそこまでなるだろうか? ナゼダ…ナゼダ…。たった一言で……。ふと、「もしかして、あの言葉は、私自身が言いたかったのかも」と思ったとたん、ハッとしてドーッと涙があふれてきました。「ぶたれていやだったよ」…この言葉こそ、小さかった私が言いたくて、しかし言えない言葉でした。
私は母にぶたれて育ちました。「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いて謝っても「お前は口で言ってもわからない、痛い目にあえば体で覚えるだろう」 と何回も何回もぶたれました。どれほど、「ぶたれるのいやだよ」と言いたかったことか…。でもそんなことを言えば、もっと怒られるので言えませんでした。「お母さんはお前がかわいいから、いい子にしたくてぶっているんだ」という母の鉄挙は正義であり、しつけであり、教育であり、ぶたれる私は"悪い子"でした。
私は、自分が悪い子だと世間に知られるのが恥ずかしくて、そして、お母さんが"ひどいお母さん"と人から思われたら悲しいので、ぶたれたことは誰にも言いませんでした。そして、胸の奥にしまいこんだまま忘れていました。それが、先日の子どもの一言で、ゆすぶられて悲しみがわきあがってきたのです。
悲しかったのは、ぶたれたことよりも、その悲しみを一人でずっと抱えてきたことで� ��た。あふれる涙の中でそのことに気づき、私は学校から帰ってきた子どもに、自分の気持ちを聞いてもらいました(…というか、その日、子どもが学校で「心」という漢字を習ってきたので、「上手に書けてるね」とほめたら急に怒り出したので、いやでも「心」の話をしないわけにはいかなかったのです。すごい成りゆき…)。話をするうちに当時の悲しみが思い出され、私は、バスタオルをまいた枕に顔をうずめ、お腹の底から、声を出して泣きました。子どもは私の頭をやさしくなでてくれました。「お母さんは、私のこと棒でぶったんだよ」と話した時、思いついて、子どもが拾ってきた棒を持ってきてもらいました。棒をみたとたん、さらにつらかったことが思い出され、一層大声で泣きました。「お前は、悪い子だね」と言� �ながら私を棒で、ぶつまねもしてもらいました。私は、枕と子どもを抱きしめ、わんわん、泣いて泣いて、泣きました。
小さな私が、どれほど悲しかったか、痛かったか、母へのうらみつらみを全部子どもに聞いてもらいました。生まれて初めて人にきいてもらった!というかんじでした(夫には、「よくぶたれたものだ」という位は話したことはありましたが)。
子どもに泣いて訴えているうちに、今まで私は自分を「加害者」子どもを「被害者」だと思っていたけれど、何のことはない、私も子ども同じ「被害者」同士なんだ、と思えるようになりました。「あなたもぶたれたの。私もぶたれたのよ。ぶたれた者同士、『いやだったよー』って一緒にエンエンしようね」と連帯感のようなものを感じ心が一つになった 気がしました。
罪悪感もどこかへふっとんでしまいました。だって、棒でぶった母とちがい、私がぶったのはティッシュの箱や空のペットボトルなどのやわらかいもので、しかも、怒った後で「私の苦しい気持ちをぶつけてしまった。あなたはちっとも悪くないのよ」と、子どもにちゃんと謝って抱きしめていたんですもの。私のお母さんより断然いいよ!と思え、100%自分を許すことができたのでした。
泣いて訴えて、うけとめてもらって和解して、私は心地よくぐったり疲れて、そのままグーグー眠ってしまいました。
…今度子どもが私がぶったことへの怒りを訴えてきても、しっかり抱きながらうけとめてあげることができると思います。子どもが癒されるより、私が癒される� ��が順番が先だったのですね。すっかり癒された私は力がみなぎり、キックでもパンチでも何でもこい!っていう心境です。私としては、こないだのお礼に抱っこするわよ、今度はあなたの番よ、と思っているのですが、子どもはそんな気配などみじんもなく、毎日元気に楽しく、ハツラツとしています。…え、次はあなたの番って思ったけど、もしかして、もしかすると、私の番がすめば、それで全ておわりだったのかしら…。私が癒されれば、あなたも同時に癒されてたのね…。
神様、この調子で、私と母とのことも癒されますように…「あなたもぶったたの?私もぶっちゃったのよ。加害者同士仲良くしましょうね」とでも心がひとつになるといいんだけど…。
後日談。
その少しあと、子どもが「ご飯前にジュー� ��を飲みたい」など聞き分けが悪くなったので抱っこ法をしました。その日ちょうど和く輪く舎で、"愛に満ちた言葉が書かれているプリント"を読み上げていき、どこで感情が動くか、というセッションをしてきたところだったので、家でも試してみようとプリントの言葉を読み上げていくと、『おまえに「ダメ」「いけません」と言うことがあるけれども、それはお前を愛しているからですよ』というところで、子どもが「ピンとこないなあ。本当に愛しているのかなあ…」とつぶやきました。そこで「愛しているよ、愛しているよ」と言ってみたのですが、反応はいまいち。反対に、「愛されてないんだ」「嫌われてるんだ」「嫌われているからぶたれるんだ」と肩代わりして言ってみると、激しくもがき、般若のような形相でまっ� �になって怒りだしました。今まで見たこともないすごい顔で、私は、彼の怒りと苦しみの深さを知り、そこまで怒っていたか…と、驚きました。けれども、先日「ぶたれていやだったよ」と言われて力が抜けたときとは違い、髪を引っぱられても、つねられても、痛いとも思わずどっしり受けとめることができました。子どもはギリギリと歯を食いしばっているので、「泣くもんか、なくもんか」と共感すると怒りはさらに激しくなり、私にむかって、「お前なんか出て行!」「お前なんか道端で死んでろ!」「ととと二人で暮らす。お前なんかいらない!」と全身を波打たせ、怒りに燃えた目で睨みながらわめきました。……この子はこんな気持ちをずっと誰にも言えず、一人でお腹にためてきたんだ…と思うと、さぞかし苦しかったろ うと思えて、涙がホトホトこぼれおちました。以前からうちの子は、何かにつけてお腹が痛くなるので、どんな気持ちを溜め込んでしまったんだろう、どうにか出させてあげたい、とずっと思っていたのです。
我が子のこんな強い怒りは、普通では受け止められません。先日のことがあったからこそ、私は自分の心が痛むことなく、ただただ共感して聞いてあげることができたのだと思います。しばらく暴れて少し静かになったとき、もう一度、「愛してるよ」と子どもに言うと、「だれが?どのくらい?」と聞くので、「私は一馬を世界一愛しているよ」と心をこめて言うと、そのとたんに(瞬時に)スーッと寝入ってしまいました。私はそのまま腕に子どもを抱いて、「私は一馬を世界一愛しているよ」と何回も何回も繰り 返してささやきました。
翌朝、子どもは、体と表情をかたくして起きてきましたが、「昨日の続き火曜日にしようね」と約束したら、たちまち笑顔になって、ニコニコ学校へ行きました。前日までの鼻水、頭痛、腹痛もすっかり治ってしまいました。長年溜め込んでいたので、一度では気持ちが出しきれなかったのでしょう。また何度でも彼の気が済むまで聞いてあげようと思っています。
数回のしゃっくりが教えてくれたことは、こんなにも心の奥深くに直結したことでした。何年も子どもの腹痛を治してあげたいと思ってきましたが、私の準備ができた今、やっと子どもは腹痛とおさらばできそうです。長い長い宿命でした。問題が解けた今、私はとっても幸せです。
N君の伝えてくれたもの
私が、20年来お付き合いさせていただいている肢体不自由の方々のグループがあります。そんなに長いものですから、出会ったときには、小学校に入るか入らないかという幼い年齢だったみんながもう今は20代後半にさしかかる青年になっています。
その中に26歳の進行性筋ジストロフィーのN君がいました。3年前、抱っこ法と出会った私が、筆談を用いながら他の人たちとやりとりをしているのを見ていても、初めは、僕は、いいよというように書くことを避けていたN君でしたが、まもなく私と書くようになりました。
<1996.9.14>
おかあさん いつもいつも ぼくのことばかりやってもらって すまないとおもっています。ぼくがいて おかあさんは たいへんだとおも� �ます。おかあさんは ぼくをうんだことを こうかいしていないかしんぱいです。
(私とそのことについて話した後)
ぼくがいてもいいことをきいてあんしんしました。ぼくも しあわせなきもちになれました。ぼくはこんなしあわせなきもちははじめてです。おわります。
(「お母さんに このこと伝える?」って私がたずねると)
おかあさんはしんじていないからつたえてもだめです。
<1996.10.12>
おかあさんに いっぱいいっぱい いいたいことがあります。おかあさん ぼくがしんでも かなしまないでください。おかあさんに そだててもらって ぼくはしあわせでした。ぼくは ○○○○○○○(彼のフルネーム) おかあさん ありがとう。いっぱいいっぱい かきたいことがあるけれ ど うまくいえないようなきがします。ぼくは うまれてきてよかったとおもっています。ぼくがいてよかったのか やっぱりしんぱいです。
(そのことについて話した後)
しあわせです。ぼくがいてもいいってきいて ほんとにうれしいです。いてはいけないとおもっていました。ぼくなんかいないほうが おかあさんがらくになれるとおもいます。おかあさんに つらいおもいをさせてばかりで もうしわけないとおもいます。
<1996.11.9>
おかあさん ありがとう。ぼくがうまれてから いつもいつもぼくのせわばかりで いいことはなかった。ぼくがいて おかあさんはいつもたいへんなことばかりだった。いつもいつもめいわくかけてばかりだった。ぼくをだき めいわくめいわくっていいます 。ぼくがげんきなら ぼくがだっこしてあげるのにって いつもいつもおもいます。ぼくが おおきくなって いえをたてて いっしょにすめるのにっておもいます。ぼくには できないことです。ひとりでいきていけないからです。ぼくはさきにしんでしまうから、おかあさんのことをまもってあげられないのがつらいです。ぼくがしんでも おかあさんはかなしまないでね。おかあさんがしんぱいです。ぼくは、おかあさんがしあわせになってくれることがいちばんうれしいです。いまはつたえないほうがいいとおもう。いつかいえるときがくるとおもう。ぼくは いままでずっと ぼくはいきていてはいけないのだと おもってきました。ぼくがいると おかあさんに めいわくをかけるって いつもいつもおもってきました。それ� �� ぼくなんかいきていないほうがいいって ずっとおもいつづけていました。ぼくなんか しんだほうが おかあさんは らくになっていいのかもしれないって おもっていました。ぼくがいなくなったら おかあさんは すごくらくになるんじゃないかっておもっていました。いまは めいわくはかけてるけど、いきていてもいいのかなっておもえます。
(そのことについて話した後)
いきていてくれなきゃこまるなんて はじめていってもらいました。ぼくがいきていなくてはこまるなんてはじめていわれました。ぼくがいきていなくてはならないひとだなんて しんじられないきがします。とてもうれしいです。いままで ずっとひとりでおもってきて つらかった。ぼくがいきていなくてはいけないなんて ほんとう� �すか。ぼくが いきていなくてはいけないそんざいだってきいて しあわせです。ぼくはいままで こんなしあわせなきもちになったことはありませんでした。いまはいきていて ほんとうによかったとおもえます。だんだんそうおもえてきました。ぼくはだんだんそうおもえてきてうれしくなってきました。あきやませんせいとはなしができてよかった。うれしいです。ぼくが いましあわせなきもちになったことをおかあさんにつたえたいです。いまおかあさんにつたえてもだいじょうぶですか。いまはやめといたほうがいいとおもう。ぼくはだいじょうぶだとおもうけど しんぱいです。
<1996.11.30>
いまぼくは、おかあさんにつたえても だいじょうぶだとおもいます。でも、すこししんぱいです。いま� ��たえるのは じしんがないけど、あきやませんせいがおうえんしてくれるなら だいじょうぶかなとおもいます。しんぱいだけど おかあさんにありがとうのきもちをつたえたいです。ぼくはひとりでしんでいくのはさびしいです。
(そのことについて話した後)
ひとりじゃないってきいて すこしほっとしました。ぼくがしんでも ひとりぼっちじゃないって いってもらって とってもうれしいです。しんでも ずっとおかあさんのそばにいられるってきいて すごくうれしいです。しんでも ぼくがいなくなってしまうんじゃないって だんだんおもえてきました。だんだんしぬのが こわくなくなってきました。ぼくがいなくなっても おかあさん かなしまないでね。
(「きょうはおかあさんにつたえようか?」� �たずねると)
じしんがないです。じしんはないけど つたえられるかなってきもします。こわいきがします。ゆうきをだして いってみようかな。いま つたえるのはすこしじしんがないです。きょうはやめておきます。このつぎ きっとつたえられるとおもいます。ぼくがはなすまえに すこしあきやませんせいが はなしをしてみてください。ぼくはそうしてもらえると すこしらくにはなせるようにおもいます。
(次回に、N君がいろいろと思い続けてきた事を、お母さんに伝えたいと思っていると、予めお母さんに話しておくと約束して)
そうしてもらえるとうれしいです。このつぎは きっとぼくもつたえられるとおもいます。ほんとうにうれしいです。
<1996.12.7>
ぼくは きょうおか� ��さんにつたえられるのが たのしみでした。おかあさん ずっとぼくは、おかあさんにありがとうをいいたかった。おかあさんが いつもいつもぼくのせわでたいへんなのをみていて、ぼくはとてもつらかったです。ぼくがいないほうが おかあさんは らくになれるんじゃないかって しんぱいでした。ぼくがいても いいのかって いつもしんぱいでした。でもあきやませんせいから いきていてもいいんじゃなくて いきていなくてはこまるんだってきいて すこしきもちが らくになってきました。しあわせだって だんだんおもえてきました。ぼくが しんでも おかあさんは かなしまないでほしいとおもいます。ぼくは あきやませんせいから ぼくがしんでも ぼくがいなくなってしまうんじゃないこと いつもおかあ� �んのそばにいて おかあさんをまもってあげられるんだってことをきいて しぬことがこわくなくなってきました。おかあさんがかなしいおもいをするんじゃないかって そのことがとてもしんぱいです。ぼくがいろいろかんがえていたことをしって おかあさんが いまつらいきもちになっているのがわかって ぼくもつらいです。でもぼくは おかあさんに ぼくのきもちをわかってほしかったです。ぼくは いまとてもしあわせなので あんしんしてください。ぼくは おかあさんに ありがとうって いっぱいいっぱい いいたいです。おかあさんのこどもでよかったって ほんとうにおもっています。おかあさんは きゅうにいわれて びっくりしてしまったかもしれないけど ぼくがいまとてもしあわせなきもちになれている こと わかってほしいです。
長い間、伝えてもだいじょうぶかと 揺れ動いていたN君だったのに、(もしかすると一番揺れ動いていたのは、まだ抱っこ法に出会ったばかりで、お母さん方にもいろいろ伝えられていなかった、自信のない私で、N君は私につき合っていてくれたのかもしれません) その日はお母さんを目の前にして実にしっかりと書き続けました。書き終えてお母さんがどう感じられたか心配だった私が、「お母さん、急にこんなこと 言われたって見せられたって、とても信じられないわよね。」というと、お母さんは、「ほんの少しの間でも、手をもって動かさせようものならイタイイタイというのに、こんなに長い間書いているのを見ていて、(内容はともかくも) この子の意思で書いているってわかります。� ��と、言ってくださいました。それから、「こんなこと書くってこの子弱っているのかしら?」ってお母さんが言われたのに対して、「何いってるのよお母さん、こんなに元気でお休みもしないでここにも通所施設にも通っているじゃないの。」って笑いとばしたのを思い出します。ところが、その6日後にN君は肺炎をおこして入院してしまいました。お母さんの前で書いて思いを伝えたその日が、彼がそこに来られた最後の日になるなんて思いもかけないことでした。
N君はその後、一時 呼吸停止があり、集中治療室で生死をさまよった後、意識障害をともないながらも半年間自宅に帰ることができ、1997年11月29日の明け方、家族のみんなに見守られながら、大好きだった花の見える自宅の窓辺のベッドで、静かに息を引き取りま した。「お母さん、N君よくがんばったね。お母さんも本当によくがんばられたよね。ご苦労さまでした。どれだけやったってこれでよかったなんて思えないだろうけど、N君は お母さんにありがとうって言っているよ。」と訃報を聞いて電話口でやっとそれだけを私が言葉にすると、お母さんは「そうですよね、あの日『いっぱいいっぱいありがとう』って書いてくれましたものね」と、おっしゃったのです。お母さんの前で書いたあの日の直後から入院になってしまったので、お見舞いに行っても筆談の内容にふれるのは辛くて そのままになっていたのに、お母さんは、その内容をずっと心にとめていてくださったようでした。
N君は自分の存在について、それから死についてと 抱っこ法と出会ったばかりの私には大きす� �るテーマをつきつけてくれました。とってもつたない答えしか返せない私でしたが、私はその時に、自分が考えうる全てを一生懸命伝えたつもりです。伝えたつもりで、本当のところはN君がつきつけてくれたことで私はそのことと真剣に向かい合わせてもらい多くのことを自分の中に気づかせてもらいました。何年も前からつきあってはいたけれど、私が抱っこ法と出会うことができ、知能障害があって言語表現が困難なN君と筆談を通してその豊かな内面と対等にやりとりをしたあの3ヶ月間は、本当に私にはかけがえのない時間となりました。感謝しています。
N君へ。一番伝えたかったことちゃんとお母さんに届いているよ。よかったね、間にあって。あっそうか、きっとN君には、全部わかっていたのよね。それからお母さ んは、今とても元気に福祉会館のパートのお仕事なさっているから安心してね。そろそろ菊の花の季節です。最後にN君のお宅にお邪魔したときも、N君のベッドから庭の小菊がいっぱい見えていましたね。また来月のお命日には、N君の大好きなお花を持って会いに行くからね。
子ども同志の癒し合い
お母さん達が天心をやっている間、付き添ってきた子ども達はスタッフと遊びながら健気に待ってくれますが、苦しくなれば、その子から順に抱っこが始まります。
ある日の保育は子どもが4人で、スタッフが3人。Aちゃん、Sちゃん、Cちゃんの順に抱っこが始まって、Hくんが電車遊びを続行して、ちょっと苦しげに順番を待ってくれる格好になりました。
「さぁ、お待ちどおさま」と、Hくんの抱っこが始まりました。すると、抱っこが先に終わったSちゃんとCちゃんが近寄って来て、Hくんの顔を優しく覗き込みました。Hくんの泣き声が高まります。2人の暖かい視線は、まるで(Hくん、先に気持ちを聞かせて貰ってありがとう。お陰で楽になったわ。Hくんもいっぱい泣 いてね)とでも言うようです。
そのうち、Sちゃんがすっと、Hくんの手を握ってくれました。途端にHくんの声が激しくなります。Cちゃんも自分のタオルを出してきて、Hくんの涙や額の汗をせっせっとこまめに拭いてくれます。それはそれは、そぉ−っと丁寧に。
2人の可愛いお手伝い。なんて美しい光景でしょう。見とれてしまいました。しかも、とても上手なんです。Hくんの手を握るSちゃんの手の力強いこと!! ふり払われたりなんかしません。しっかり支えられて気持ち良く泣けることを、彼女は知っているようです。Cちゃんの心を込めた拭き方も、「泣いていいんだよ」という応援と、「ひろくんが大切だよ」という優しさが伝わるものでした。
こちらからは何も指示していません。すべて自発� �にしてくれたんです。
泣かれてもちっともおろおろしない頼もしい、お2人さん。悠然と構えてられるのは、抱っこで育って、その良さを肌で知っている、その確信の深さでしょうか? これから、抱っこで育った子ども達が増えたら、こういうすてきな場面に出会えるのも増えますね。
さて、そんなSちゃん、Cちゃん、Hくん(この3人は共に4、5歳位)の癒し合いの横で、一番年下のAちゃん(2歳)は何をしていたと思いますか? 自分の抱っこが終わって、ひたすらおにぎりを頬張っていました。可愛い−!
お母さん達が終わって、子どもたちは広い部屋に移って、はねたりクルクル回ったりうれしそう。そのうち手をつないでゆらゆら、その時、Cちゃんの心からあふれ出た言葉が、この日のしめくく� �となりました。
「会えてよかったね!」
娘が生まれて
2000年春、念願だった赤ちゃんとの暮らしが始まりました。初めての子どもを亡くしてから8年、その間も流産を繰り返し、もう子どもを産むことはないだろうと思っていました。抱っこのセッションのお手伝いをして、たくさんのすてきな親子に出会うと、ますます子どもへの思いは募り、時々は辛くなるほどでした。もうあきらめよう、と思っていた矢先、娘はやってきたのです。そんな事情があるのだもの、どんなにか愛しくて大切な存在であることか。娘がにこにこ笑って私を見上げるとき、かわいくてかわいくて、涙が出そうになるくらい幸せな気持ちになります…。
でも実は、そういう感情が湧いてきたのはごく最近になってからなんです。ここに至るまではとても憂鬱でした。たぶんマタ� ��ティブルーもあったのだと思うけれど、些細なことに傷つき、沈み込み、そこから抜けられないでもがいていました。その間の出来事はまだ生々しすぎて、思い出すだけでも苦しくなります。実際に子どもを産むまでは、我が子を抱きたいというその一念だけでしたが、それが叶った直後から子育ての現実が始まりました。子育てがこんなに大変なものだと知っていたなら、私は子どもを産もうなんて思わなかったかもしれません。特に最初の頃は、私には子育てをする資格がないのに、大した覚悟もなく子どもを産んでしまったんじゃないかと、ずいぶん自分を責めました。
振り返ってみると、娘がよく泣く赤ちゃんだったことが苦しさの始まりでした。お産は難産で産後の体調もすぐれず、それだけで私はパニックだったのに� ��その上泣きっぱなしの赤ちゃんの世話は本当に大変でした。赤ちゃんが泣くのはあたりまえだけれど、娘は病院にいたときからひと一倍泣いていました。抱っこ法を知っている私は、初めのうちはよしよしできたのですが、そのうちイライラするようになりました。出産した病院は母子同室制だったのですが、娘が泣いてばかりいるので、同室の親子に気を遣って夜は授乳室に連れていき、そこで一晩中過ごしたこともあります。娘が苦しそうにキーキー泣くのは、切迫流産になってしまったことや破水してしまったこと、21時間もかかって吸引分娩になってしまったことなど、怖い思いをたくさんしたためだと思いました。ですから、なるだけその思いを慰めて安心させてやりたかったのですが、さすがにずっと泣き続けられると、� �ちらも疲れ切ってしまい、「これ以上何をしろって言うの!」と怒りを覚えたりもしました。
退院してからはもっと大変でした。病院では新生児室に預ける事もできましたが、家ではずっと一緒です。なるだけ自然なお産をし、生まれたら片時も離したくないという希望をもっていたはずの私が、泣きっぱなしの娘とずっと一緒にいることにもう嫌気がさしていました。今なら、その根っこに"私のせいで怖い思いをさせてしまった"という自分への責めがあり、だからこそよけいに娘の泣き声が突き刺さったんだと理解できますが、その時はひたすら苦しいだけで、泣きつづける娘を抱いていることができず、しばらくひとりで泣かせっぱなしにしたりしていました。生まれたばかりの赤ちゃんが、欲求を満たしたくて泣いてい� �のに、それに応じてあげられない私ってサイテーだと思いながら、でも娘に優しい気持ちを向けることができなかった。本当にかわいそうなことをしました。しかも1人目を亡くしたとき、どんな苦労もいとわないから生きていて欲しいと願ったはずだったのに・・・。
そんな経過があるからでしょうか。現在の娘は、いつまでも泣き続けた新生児の頃とは違い、「待っててね」と頼むと、一人遊びをしながら待っていてくれる聞き分けのいい子になりました。新生児期にたくさん抱いて、しょっちゅう添い寝をしていたことの効果だったら嬉しいのですが、時々私と視線を合わせなかったり、横抱きにするともがいて泣き出すという様子をみると、やはり我慢を覚えてしまったようです。最近は私もだいぶ楽になってきたので、� �ょっとは泣かしてあげてもいいかな、と抱っこ(法)を試みる事もあるのですが、ギャーギャー泣かれるともううんざり。「そのうちちゃんと抱っこするからね」と言いながら、泣きをおさめようと縦抱きにしたり揺らしたり、おっぱいやおもちゃを差し出す毎日です。私にはまだまだ娘の訴えをきくことはできません。せめて、「お母さんが聞けないだけで、あなたは泣いてていいんだよ」「お母さんの苦しさはあなたのせいじゃないよ」と伝えるのが精一杯。心優しき抱っこの仲間たちは、「それだけで十分だよ」と言ってくれるけど、いつもイライラしている姿を見せていたら、きっと娘も穏やかではないだろうな…。そして私に気を遣って、泣かない子どもになってしまうのかな…。それを思うと胸が詰まります。
抱っこ� �に出会って、泣きたい時は思いきり泣いてもいいんだ、と学んだはずでした。自分の傷を子どもに伝えないようにしようと、自分のための癒しの体験も積み重ねてきて、ありのままの傷だらけの自分でも少し好きになりかけていました。もう大丈夫、と思ったからこそ子どもを産む決心ができたのに、娘が来てからは、そんな自己肯定も自信もどこかへ吹き飛んで、以前のような否定的で弱虫の私がいます。"子育ては自分の中の子ども心が刺激されて動き出すから大変になるんだよ"と芳子さんが教えてくれたけど、本当にその通りです。そして娘はそんなことは全てお見通しなんですよね。先日もおっぱいマッサージの坂田さんと「お母さんもダダこねしたい」という話をしていたら、眠っていたはずなのにぱっと起きてニコニコ笑う という場面があって、やっぱり全部ばれてるんでだなあと思ったことでした。
これまで、お母さんの苦しさを感じ一緒に苦しみながらも、まずはお母さんが楽になることを願っている子どもたちにたくさん会ってきました。きっと娘も同じような気持ちだと思います。私が楽ちんに生きていければ、娘はそれだけで安心して幸せになれるでしょう。もっと成熟した大人ごころをもったひとのところに生まれてくれば、娘も苦労が少なかっただろうに、と申し訳ないような気持ちになりますが、こんな私のところに来てくれたのも何かの縁だから、娘に導いてもらって、一緒に幸せになる道を探していきたいと思っています。それでも実際は、日常に追われて自分の内面を振り返る余裕をなくし、気がついたらイライラの極地で、娘や 夫に八つ当たりしてしまう…ということを繰返していきそうで、いつになったらそこから抜け出せるのか見当もつかないのですが…。これからどうなっていくのかな。怖いような楽しみのようなちょっと複雑な気持ちでいます。
△(さんかく)抱っこと○(まんまる)抱っこ
最近、はるばるY県から錦糸町にいらっしゃる親子がいます。そのお子さんからすてきなお話を聞きました。お母さんからのFAXによると、
「娘は私の抱っこは『△(さんかく)抱っこ』、先生方との抱っこは『○(まんまる)抱っこ』 と両方を区別しており、『△は嫌い、でも○は好き』と言っております」 とのことでした。
その日はたまたまセッションの日で、泣いているお子さんに△抱っこと○抱っこについてきいてみました。私はお母さんに自分の思いを十分に聞いてもらえる抱っこが○抱っこで、お母さんとお子さんとスタッフがかかわるのは3人になるから△抱っこになるはずだ、と思って話してみましたが、納得してくれず、大泣きのままでした。
その後阿部先生が、「△抱っこは私はらくになるけれど、お母さんはちっともらくにならないからいやなんでしょう」と話してくださると、落ち着いて「そうなのよ、やっとわかってくれたのね」というふうでした。お母さんが抱っこすると2時間以上抱き続けても大泣きのままで、「△抱っこはきらい」と言い続けるということでした。お子さんはお母さんのために遠いY 県から錦糸町まで連れてきたのです。なんてすごい力なのでしょう。
例えばこんなことがありました。
二世帯住宅に同居していた親子が嫁、姑の問題を抱えて苦しんでいましたが、その問題が解決すると同時に下のお子さんが肺炎で10日間入院してしまいました。それがたまたま、お母さんが3歳の頃半年もの間入院していた同じ病院で、お母さんは2年間抱っこに通って初めて、「入院していたんです」と話してくださいました。「記憶にあるのは退院した日のことだけ」とおっしゃるほどつらい思い出で、しっかり封印されてしまっていたことだったのでしょう。それをお子さん自身が自分のからだで「思い出していい時だよ」と教えてくれたのではないでしょか。「お母さんの抱っこをしようね」と話すとお子さん達� ��落ち着いて遊んで待っていてくれました。同居問題の頃はお母さんにかじりついて片時もはなれてくれなかったお姉ちゃんがスンナリ離れてくれて、「2年間私は一体何をしてたの」と反省もさせてくれたのでした。
又、こんな場合もあります。生まれて3か月の赤ちゃんが双生児のお姉ちゃんと一緒に来てくれていて、お姉ちゃんをなぐさめていることばの中に「さみしい」が出てくる度に激しく泣いているので、「あなたもさみしかったのね」と話しかけました。でもまだ3か月でお母さんにとっては理想的なお産が出来て、おっぱいも飲めて、「何がそんなにさみしいの?」と考えてしまいました。ふっと「お母さん、さみしい?」とお母さんに聞いてみました。聞かれたお母さん、「エーッ、私ですかー」と突然のことで� ��かれたようでした。が、しばらくして、ポロリと涙が落ちました。お母さんから意外な話がありました。
「私の母は8人兄弟の末娘。ところが母が生まれて間もなく祖母は病気で亡くなり、8人兄弟はバラバラに親戚にあずけられ、離ればなれになってしまったそうです。父の親戚と違って、母の親戚とはあまりつき合いがなく、たまに会ったおじさんもこれが母の兄弟なのだろうかと思うほどよそよそしく、母がかわいそうな気がしました。私がおじさんを悪く言うと、母は悲しそうな顔をしました。父は私が4人目の子どもを産むとき、孫がたくさんになるほどお母さん孝行だと言ってくれます。母の生い立ちを考えると父のことばがよくわかります。私は妹と二人姉妹で、母より父にかわいがられて育ちました。母は愛情表� ��がとても下手だと思います。きっと母は祖母に抱かれたこともほとんどなかったのではないかというきがします」
私はお話を聞いて「あなたもずっとお母さんの事を心配し続けて来たのね」というだけが精一杯でした。おばあちゃんの気持ちをお母さんを通して、今、孫であるこの子がしっかりと「さみしい」と受け取っているのです。
親となった私たちも子どもだった頃があるのです。親となってしまうと、子どものことばかりに心を奪われて「こんなに心配しているのにこの子はもう!」とばかり考えてしまいますが、立場をかえると「こんなに心配しているのにお母さんはもう!」となります。「抱っこ、抱っこ、ママ抱っこ」という声が、最近は「抱っこしてあげる、ママ抱っこしてあげる」と聞こえます。
抱っこされて泣き続けながらも、お母さんを指さし続ける人、「マ� �がーママがー」と言う人、自分を慰めるお母さんとスタッフをうらめしそうにみくらべる人、せつなげにじーっと見つめる人、それぞれの思いで「お母さんを何とかしたい、しなければ」の気持ちがあらわれています。そんなお子さん方を見るにつけ、○(まんまる)抱っこを目指さなければ・・・と思います。
「でも・・・待っててね」とお子さん方にお願いしなければなりません。お母さんたちは20年も30年もつらい過去にしっかり「ふた」をして生きてきました。そうしなければ生きて来られなかったかもしれなかった。だから時間が必要です。
「ゆっくり、ゆっくりね。あきらめないで、根気よく、希望をもって、必ずできるよう、お手伝いさせてね。○(まんまる)抱っこになりますように・・・」
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