幸せになっていいんだって!! いきなりですが、私は自分が幸せになると誰かが不幸になる〜と、ずっと思いこんでいました。誰かって?やっぱり母なんですね。自分は母以上に幸せになってはいけない。
苦労して戦後、山の中の一軒家で愚痴をこぼせる相手もいなくて、苦労を怒りに置き換えて一人で頑張って肉体労働に耐えてきた母以上に 、幸せになっていいなんて娘としてはどうしても思えなかったのです。母はいつも怒ってばかりでした・・・。
幼稚園の頃叔母が、黒い足踏みミシンを使おうと、台からクルッとまわして出そうとした時に台の縁に手をかけていた私の人差し指の生爪が一枚ペロッと剥がれて大泣きした時も、猟犬に噛まれた時も、釘を踏んづけた時も、いつもおまえが悪いからだ!!と責められていました。母自身もいつも自分を責める人でした。腎臓を悪くして入院した時も風邪を引いた時も、いつも自分が悪いんだと責めていました。父にもいつもそうでした。(男性不信はこの時からか?)今思えば更年期とも重なって辛かっただろうとも思いますが、責めたり怒ったりする事で何とかバランスをとっていたのだろうと思いますが、子供の私 には分かりませんでした。子供ながらに、いつも不安だった事、寂しかった事、何とか役に立ちたいと思いながらも、子供の私には出来ない事が多くお風呂に一緒に入った時赤く腫れた母の肩を見て、こんなになっているのに何もして上げられないと泣いて自分を責めた記憶があります。
でも、最近やっとそういう思いを、いつまでも引きずっているのも嫌だなあ〜と思える様になって来ました。〜自分と同じ思いをさせてはいけない〜と、結婚もしない子供も産まないと小さい時に私は間違った信念を持って貫いてしまいました。
子供が痛みで泣き叫んでいるのを聞いたときお母さんはどんな思いだっただろうね、と言われて、やっと目が醒めた思いでした。母はいつも一生懸命でした。それでも自分を責めていました。そ� �な姿を見るのは子供ながらに辛いものでした。だから子育てに毎日一生懸命のお母さん!!自分の事を責めなくていいですよ。いっぱい褒めてあげて下さいね。誰かに褒めて欲しくなったらいつでも和く輪く舎に来て下さいね。お待ちしています。
〜ところで何で幸せになっていっていいんだって思えたかって? それは、みんなが 分かれ道のワークをしてくれたからです。どうしても幸せになる道を選ばないっと頑張っていた私に、みんなは辛抱強く付きあってくれました。私の中では、「お先に、どうぞどうぞ幸せになって下さい。私はいいですから」と道を脇に除けている、という感じだったのですが 、 〜自分が幸せになると、他の人も幸せになるんだよ〜 という言葉を聞いてビックリしました。エーッ!!そうなんだ〜それなら私も幸せになってもいいのかな?と思いつつまだ渋っていたら、阿部先生がハタキを取り出して、もしまだ母の役に立てなかった〜という罪悪感を感じているとしたら、それを肩に背負いつつ幸せになる道を歩いていくんだ!!と後ろからハタキを肩に乗せて歩く様に促されました。その時は、幸せになる道の方に歩き出したのですが肩に乗せられたハタキの重かった事。それを言ったら人生とは、そういう重いものだと言われました。
〜幸せになる道なんてやっぱり私も選べないわ〜という方がいらっしゃったら、和く輪く舎に来てくださいね。みんなでお待ちしています。
何とかする! 先日、もう出かける時間なのに、何故かいつまでもテレビをつけたまま、グズグズしている自分がいて、何やっているんだろう?と思っていたら、テレビに突然スタントマンの人達が何人も出て来て、狭いスタジオの中で見事な乱闘シーンを演じていました。オー、何だこの人たちは?とその動きにプロを感じて見ていたら、クイズ番組で「今までに、どんな到底無理!と思われるスタントの依頼がありましたか?」という質問に対して、一人の人が滝壷に落ちるシーンの依頼を受けて、「滝壷の下がどれ位あるのか分らないのに飛べない」と断ったら、先輩がその仕事を引き受けていました。
その人はどんな仕事も「何とかする!」と言っていたので、「自分 を?」という質問に対して、「相手を!」と言っていました。その答えに会場からは、エーッとかヘエーとか驚きの声が聞こえていました。
私も最初そんな事していいのか?と思いましたが、日頃からお願いしたり、やっている事かーと思い直しました。むしろ、相手とも自分とも交渉したり折り合いをつけたりして、出来ないと断るのでなく、「何とかしよう!」とするその強さに惹かれました。ああ!この事だったのか、と納得して早々に家を出ました。
〜どうせ私は出来ないんだ〜という諦めの根強い私の中にも、「何とかする!」という方向にエネルギーを向ければいいのだ。その力を信頼すればいいのだ。諦めてしまいそうになるけれど誰の中にもそのエネルギーはあるのだと感じました。出来てない事にばかり� �がいきがちですが、みんな「何とかして」やって来ているんだと改めて感じました。
やってもらったり、やってあげたりしながら・・・と言いながら、『和く輪く舎だより』の仕上げもまた、スタッフのみなさんにご面倒をかけました。お蔭様で何とかするというよりは、何とかして頂いたという感じです。この度も本当にありがとうございました。
袋小路 ここ数ヶ月間、袋小路に入ってしまっています。
自分に対して疑問だらけで、今ひとつ自信持てないし、将来どうなるかも不安です。自分のことだけじゃなくて、世の中に対しても疑問だらけで、不信感や絶望感を感じることが多くなってます。考えすぎるのがよくないんだろうか、と思ってみても今の世の中どう考えても楽観的にはなれない気分です。「絶望感」と書きましたが、それでも「悲観的になろうが今ちゃんと見据えておかなくてはいけないことがあるんだ、いったい自分には何ができるんだろうか」と真面目に考えてみたりもしています。しかし、今のところすっきりした答えが出ません。そこでさらに将来不安になります。また、世の中のことについて� �ちゃんと見据えなくては」と思っているくせに、一番身近な自分のことはちゃんと見据えずに見たくないものは見ないようにしているところもあって、本当に自分って困ったものです。
さて、ある夕方、とある仕事先でいろんな残務処理を一人でしていたとき、本当になんの脈略もなく、なんでそんなこと考え始めたのか自分でもわからないのですが、十数年前、とある学校に通うために住んでいた四国の松山での「家から学校までの通学路の道筋」を思い出せなくなっていることに気付き、頭の中で探りはじめていました。
当時、家から学校まで自転車で30分くらいかけて通っていましたが、広い道路を通っていくと大回りになってしまうので、入学から何ヶ月もかけて裏道を徹底研究して「この道が一番早い!」とい� ��のを見つけていました。その裏道というのは本当に自転車の幅ぎりぎりの塀と塀の間をすり抜けていくところや、ちょっとうっかりすると横の溝に落ちてしまいそうな狭い道もありました。なぜか犬を路上で何匹も放し飼いにしている家があって、学校帰りに街中でハンバーガーなどを買って帰ると、やっぱり臭いでわかるみたいでその犬が1〜2匹猛烈に追いかけてくるので、必死で逃げなくてはいけないというポイントもありました。
そういう断片的にあんなところがあったなーというのは思い出すのですが、しかし、家を出てから順にどう通ってどんな景色があって学校に到着していたのか、その30分の行程を思い出そうとすると、あまりに複雑すぎてどうしても途中で道がわからなくなってしまうのでした。半分くらい� ��ところで、この後どうだったかなあ、あーでもないこーでもない、と思い出そうとがんばり続けているとき、ふと「あの時の自分はどんな気分や思いを抱えて通学路を走っていたのかなあ」と急に思い起こし始め、その途端、不意に体が緩んで涙があふれてきました。
なんだかその「学校に通学中の自分」が自分はとても好きなのです。そして、今の自分はそのときの自分より間違いなく成長しているということも実感できて、なんだか安心できるのです。未来の自分もきっと今より成長できているよ、という希望も湧いてきました。はー、なるほどなー、と少し味わってみました。
その後まもなく「でも今の自分より松山に住んでいた頃の自分の方が、すごいこともあるな」と思い至りました。1年間学校に通った後、僕 は自営でピアノ教室を始めましたが、今思えばあんなことよくできたなーと思ってしまいます。昔の自分すごいです。今の自分ちょっと困ってしまいました。しかし、未来の自分が今の自分を見たときも、同じように昔の自分はすごいって思うかもしれません。
これはそもそも、自分のこととはいえ「比べよう」っていうのが間違っているのかもしれませんね。昔の自分を認めてあげるっていう感じだと、暖かい気持ちになります。
でも、さらに「ずっと変わっていない自分」もあるよなー、というのも感じました。例えば冗談のセンスは幼稚園のころから(ひょっとしたら赤ちゃんの頃から!)ずっと変わっていないような気がします。そして自分の冗談のセンスはもちろん好きです。「しかし、最近なにか面白い会心の� �談を言っただろうか?」「思い浮かばない・・・!」
ということで、「今の自分」と「昔の自分」と「未来の自分」と「変わらない自分」が出てきてしまって、よく整理がつかなくなってしまい、また新たな袋小路に入ってしまうのでした・・・。
でもこの文を書いていて、迷っている自分もなんだか好きになりました。
知っていたけど、気づいていたけど・・・ 『和く輪くだより』55号に、「三年ぐらい前に、母(イメージの)と正面から向き合うことが出来て(それまでは私が守ってあげなければならない母でした)、文句が言えてから、ずいぶん自分の中で縛っていたものがゆるんできた感じがありました。」というWさんの体験談がありましたが、私は、母が亡くなって20年、今もまだ向き合えていないという感じがしています。私もまた、私が母を守ってあげなければならないと思いこんでいたようでした。母とはとても距離が近く、また母に十分愛されていたと感じられるのですが、母に抱かれていることはイメージできなくて、私が母を抱いているのです。母を決してがっかりさせず、母の期待� ��りに応えていくこと、母を喜ばせることで母を支えていくこと、それが私の行動の基準になっていたように思います。
つい最近、あるワークを体験する機会がありました。自分の感じがぴったりする位置に他の人に立ってもらって、起こることを待ってみました。私の場合は、最初斜め後ろに男性、少ししてから正面に女性に立ってもらいました。その時点では、その人達が私にとってどういう関係の人なのか私自身もわからないのですが、しばらくして、3人のダイナミックな動きがそれぞれに起こり始めた中で、その女性は母だということがわかってきました(男性は、ワークの終盤で夫であるような気がしました)。そしてその母親役の人との間が重いものでつながっているような気がして、それが母の望む道で、それを否� ��なしに選ばざるを得ない感じがしました。
以前初めて分かれ道のワークをした時に、幼な子ではなく少し大きくなってからの私が、易き道を進んで行く気持ちは全くなくて、母が望んでいる道を自ら選ぶのですが、「行けばいいんでしょ、行けば!」と母の手を振り切って一人でどんどん行ってしまった事がありました。母の期待に応えて頑張り続けることはとてもたいへんだったのですが、それは母思いの私が望んでいたことでもあると思っていたので、私の中にそんな気持ちがあったのは全く意外でした。今回の母との間の重いものは、その時の感じに似たものがありました。
そして、今回のワークではそのあと母が近づいてきて私を抱こうとするのですが、私は腰が引けた感じになりました。そして私の体にさしのべ られた母の手を丁重に母の方へ戻し、「もう私は自分の道を歩いていきます」と心の中で言いました。生まれて初めての事に、とても不慣れで居心地が悪く落ち着けない私は、子供のようにTシャツの裾をもじもじとさわっていました。そして、母に「笑って」とお願いしたあと、私から母にほほえみかけ手を振っているところでワークを終えました。
ところがその後で、母親役の人が「ずっと守ってあげたいと思っていた。なかなか離れなかったので、もう大丈夫でしょう?という感じだった」というのを聞いて、「何言ってるの、そんなことみじんも感じさせてくれなかったじゃないの?ずっと私はお母さんのことが気がかりで離れられなかったのに・・・」と無性に腹が立って、涙がこみ上げてきました。
それから三� �後、今度は運命に頭を下げるというワークをする機会に恵まれました。母親役に前に立ってもらい運命に敬意を表し、頭を下げるというワークですが、以前やった時には私にとって難しかったワークです。今回はさらに援助者が一人ついて頭を下げることを手伝ってもらう(押さえてもらう)ようにしたのですが、しっかりと押さえてもらうことで、「だって、(お母さんをずっと支えるのは)たいへんだったよう」という気持ちが急にこみ上げてきて涙がこぼれました。そしてその後頭がすんなり下げられたのです。
三日前に急に怒りたくなったのも私の中にまだまだ聞いて欲しい言い分があったんだなあと気づきました。今まで気づいていなかった自分の中の気持ちに出会うことは、癒しの旅のとても大きな一歩になると思い� �す。でも振り返ると、私の場合「知ってるよー」「気づいてるよー」というだけで実際に言い分を聞いてあげるのがずいぶんお預けになっていたということに気がつきました。もっともっと聞いて欲しい言い分や文句が言い出せる時の来るのを待っていたように思います。知っていたはず、気づいていたはずのことが、気持ちの深いところで、腑に落ちたように感じられたときに、また一段、癒しのらせん階段を上っていくのですよね。
母と正面から向き合えるようになること、それはきっと私にとって何かとても意味あることのような気がずっとしてきました。楽しみにしながら、もう少し自分の言い分に耳を傾けていこうと思います。
ダダをこねて甘えて、そして叱って欲しかった? 昨年の秋頃から私の中の「幼い私」がすごく楽しいダダこねを始めました。
今までずーっとダダこねワークになる度に「周りの人に迷惑をかけてしまうからだめ!」とか「怖い、怖い」と言う気持ちがあって、ワークであっても気持ちのいいダダこねが出来ませんでした。
3年ぐらい前に、母(イメージの)と正面から向き合うことが出来て(それまでは私が守ってあげなければならない母でした)文句が言えてから、ずいぶん自分の中で縛っていたものがゆるんできた感じがありました。
楽しいダダこねが出来るようになった発端は、「分かれ道のワーク」でした。初めて自分が子ども役になってみたとき、思いがけない自分� �出会いました。お母さん役の方が呼んでいる声を聞いただけで、うれしくてうれしくて涙が止まらなくなりました。「幼い私」は「もっと呼んで!もっと呼んで!」と母の呼ぶ声を求めていました。その優しい声を十分に味わい尽くしました。そうすると呼ばれただけでその愛が伝わってくるのです。「大好きよ。私のかわいい子ども。その全てを愛しているよ」と。
さて「こっちへおいで」と言われた瞬間、こともあろうに座布団を蹴飛ばしていたのです。悪さをしようという気持ちなどどこにもありません。「お母さんが愛してくれるから安心して何でも出来る」という感じで、すっかり甘えていたのです。
次に手をつないで歩くことになると、手をつないだだけで、楽しくて楽しくてピョンピョン飛び跳ねました。つ� ��いだ手からいっぱいの愛が伝わるのです。「こうして愛が伝わるんだなぁ」という実感がありました。そして「こっちへ行きましょう」と言われたとたん「やだ、やだ、あっちがいい」と言いたい放題ダダをこねました。「愛されているという自信」で甘えられたように思います。心の底から楽しい気持ちでした。
きっと幼い子どもは大好きなお母さんの愛を感じれば感じるほど、安心して甘えることが出来るのでしょうね。ただ正直に「いやだ」「つまらない」「やりたくない」「怖いよ」「さみしいよ」と甘えて言えるんだなと思いました。ですからお母さんはただ「そうか、そうか」と言って、聞いていればいいだけなんだと言うことも、実感出来ました。子どもがダダをこねても困ってしまわなくていいのです。自分を責� ��ることもないのです。子どもはただ自分の感情をお母さんに甘えて表現したり、言いたいことを聞いてほしいだけなのですからね。
さてその後、お母さん役の方が「お母さんはあなたにこうして欲しい」「これは止めましょう」と正しく導いてくれたので、それはそれなりに「ああ、あのまま悪い子にならなくて良かった」とホッとした気持ちにはなれました。
でもなんだか「幼い私」は心が晴れないのです。呼んでもらった時や、手をつないでもらった時のような感動が無いのです。「どうして?どうして?」と幼い自分に聞いてみました。「もしかして叱られたかった?」「……」言葉はないけれど、何だかうなずく幼い私がいるようです。「そんなぁ!いやでしょう」「だめじゃないの!」と言う大人の私もいます。 でも「そうかもしれない」という気持ちもあります。8人兄弟の末っ子の私は、かわいいというだけでなく、忙しさのあまりかまってもらえなかった、叱っている暇なんか無い暮らしの中にいました。「せめて叱ってでも私を見て!」と言っているのかも知れません。次回、チャンスがあったら「叱って欲しかった?」という「分かれ道ワーク」をやってみたいと楽しみにしています。
子育て中の皆さんも、そんな体験ができると、もっと気楽に子どもとつきあえるのではないか、そして幼い頃満たせなかった思いも、満たすことが出来るように思います。
2005年が明けました 明けましておめでとうございます。皆さんはどんな新年をお迎えでしようか。
最近の新聞に、絵本屋の落合恵子さんが、「さいごには だれもが 死ぬ」という表題で、『せかいのひとびと』という本を紹介していました。作者の言葉を紹介しながら、ご自身の感想を次のように書いていました。
「世界にはいろいろなひとがいていろいろな価値観があり、それに優劣をつけることは出来ない」
・・・・そう、「いろいろ」がいい。「ひとつ」じゃなくて、「いろいろ」が。どれが先でもどれが後でもなく、共に在る社会。
「人間は身分とか 地位とか かい級なんていうおかしな しくみを つくってきた でも みんな同じ地球で くらしている� ��だし 同じ空気を すって 同じ太陽に てらされているんだ。そして さいごには だれもが 死ぬ」
・・・・「さいごにはだれもが死ぬ」、この当たり前のことを実感しているか否かによって、たぶん人生の景色はまるで違ってくるはず。
昨年は多くの命が安易に奪われる事件が続きました。そして私は生まれ出た命と終末の命に出会いました。
去年の今頃大坂から、88才にならんとする母が来ました。すぐに一ヶ月の入院生活、小さくなって弱々しい母を見て、後どれくらい生きられるんだろうと 正直思いました。そして介護が始まりました。
主人や嫁達のサポ−トを得て何とか一年を乗り切りましたが、その半ばを過ぎたころ少々煮詰まっていた私に、主人が「良い映画をやっているから行こ� ��」と誘ってくれました。『らくだの涙』と言うモンゴルの大自然に生きる遊牧民一家が子育てできない母らくだの心を癒すドキュメンタリ−映画でした。
ポスタ−をみると「泣いたらやさしくなれた」と書いたキャッチフレ−ズと可愛いらくだの写真がありました。内容は難産で出産したらくだのお母さんが、「育児拒否」をするのですが、モンゴルではそんなとき、馬頭琴という楽器弾きを呼んで、家族の若いお母さんが、「ホ−ホイホ−」と大草原に響き渡るような素朴な声で、うたいながら家族全員のみまもる中で、らくだのお母さんの体を、やさしくなで続けながら、癒していくという習慣があるのだそうです。
らくだの大きな目に湖のように涙が溢れ出るのを見て、私の目にも溢れるものがありました。それから 何日かして、様々な介護が必要になってきた母に、施設の利用もせざるを得なくなって、その話をするとまだまだ自分でやれると思っている母は、強い口調で「嫌だなあ」と言います。そして「そんなにまでして生きていてもしょうがない」と悲しくなることを言うのです。今の状況を母に理解してもらうのにはと、言葉を探している内に涙が出てきて「ごめんね、ごめんね」としか言えませんでした。母の背中をさすりながら抱くようにして。母の泣く声を聞いたのは、その時が初めてでした。「いいんだよ、いいんだよ。悪いね−、世話をかけて」と言いながら。強い母でした。「何でも自分でやる癖がついている」と口癖のように言います。
そんな母もなんだか「泣いたらやさしくなれた」ようです。今は骨折をして、リハビ リ病院に入院していますが、3才のひ孫に「おばあちゃん頑張って」と言われ、会うのを楽しみにずいぶん心は元気になってきたようで、一安心しています。
昨年は、なんとかけがえのない多くの命が奪われてしまったことでしょう。和く輪く舎に集う皆さんと共に、少しでも気持ちの良い日が送れますように、そしてそれが、世の中の全てのひとびとに 伝染しますようにと、祈ります。
みんな役に立ちたいんだよね 夏に抱っこ法の研修会があり、九州まで行ってきました。その時大阪の援助者であるSさんから、「ゆらゆら体操」を親子でやっているという発表を映像とお話し、それから実技を通して教えてもらいました。Sさんの所に通ってくる人たちが映像ででてきました。初めはまず自分たちがお母さんにやってもらうことから体験していったそうです。でも最近はお母さんにやってあげるようになり、役割を交代することでのメリットがたくさんあるということでした。「ゆらゆら体操」とは1人は床に寝てもう1人が足をごろごろ揺らしたり、腕をぶらぶら揺らすことで受けている人がリラックスしていきます。
交代してお母さ んにやってあげている男の子の満足そうな姿に、「これだ!!!これだ!!」と思いました。そして相談に来ている何人かの顔が思い出されました。私の中にずっとどうしたらいいだろうと思ってきたことがあったのです。それは小さいときから相談にきて泣いたり笑ったりしてきた子たちが、思春期を迎えて、「自分はやってもらうだけで何もかも中途半端だ」と思って、苛立ちとあきらめのような何とも言えない感じが、彼らから伝わってきていたのです。人の役、もっと突き詰めると、今まで大事にしてきてくれたお母さんに、なんにもしてあげられない不甲斐なさみたいなものが、早い人は小3ぐらいから沸々と沸いてきて苛立ちとなって暴走してみたり、怒ってみたり、自分を傷つけたり、八つ当たりしている姿が痛々しく見え� ��いました。どんなに「そのままの君でいいんだ」と慰めても、埋められない空虚さがきっと彼らにあったのでしょう。
それはそうですよね。生きていく上で役割って大きな生きる糧になりますよね。大きな視点に立てば"そのままでいいんだ。そこにいるだけで障害のあるその人生を歩み続けるだけで、周りの人にたくさんのことを気づかせてくれる"のだけど、本人とすれば見える役割、直接「ありがとう」と喜んでくれる相手がいる役割がほしいものですよね。そう、私だって同じことでした。持ちつ持たれつの相互関係はとっても大事なことですよね。
そしてここでもう1つ、「ゆらゆら体操」のいいところは、ただ揺らすだけで簡単ということ。何のテクニックもいらない。簡単ということは手伝う側も簡単だとい うこと。もしかしたら本当はテクニックがあるのかもしれないけれど、揺らしてもらうだけで相当気持ちがいいので、難しいところはこの際、ちょっと横に置いといて「やってみよう」と研修を受けた時そう思いました。
初めてやったのはY君。小さいときからお姉ちゃんがお母さんのお手伝いを上手にやってきたので、Y君の"お母さんの役に立ちたい"という気持ちはひとしおなんです。今はだいぶ穏やかな本来の彼に戻ってきましたが、1・2年前ぐらいはどっかに行ってしまったり、外で大声で泣きわめいてお母さんが困ったり、火がついていなかったので良かったのだけど、ストーブをわざと倒したりと、急にこんな風に困らせることばかりし始めた彼にとまどい、お母さんが一緒に生活できないかもとまで思い詰めた時期もありました。
今回はひと泣きした後、お母さんに「ゆらゆら体操」をする前、ほんのちょっと本人に「こんな風にやるんだよ」と私が彼の足を揺らして見ました。そしてお母さんに横になってもらい、足のゆ� �ゆらをやってもらいました。その時のY君のうれしそうな顔といったら、それはそれは輝くような顔で、本当に印象的でした。私は後ろで彼を支えていたので、横からの顔しかわからなかったのですが、にこにこと周りで見ていたおとなの顔やお母さんの顔を見渡しながら、本当にきらきらと目が輝いていました。後ろ姿はすくっと立って誇らしそうでした。お母さんも気持ちよさそうにして、お互いいい感じでした。Y君はどんな思いを伝えていたのでしょうか。いっぱい泣いたときとはまた違う"凛とした"感じかな。とてもいい感じの後ろ姿で親子は帰っていきました。
それから次にやってみたのがT君。学習会に参加しているときも、1年ぐらい前から積極的になってきた彼、それまでは自分がピアノを弾く番でもおずお� �と、「ほらT君の番だよ」と言われて真ん中に出てくる感じでした。それが「ぼくがやる」と自分から真ん中に出てくるようになって、「T君変わったよね」と喜んでいました。そして今年、4月になって担任が変わり、その先生との出会ったことで、"T君は車いすがとってもうまく操縦できる"ということを周りの人たちにわかってもらい、ご機嫌な彼。障害物があるとぱっと止まったり、くるっとUターンもお手のもの。そんな今までと違う彼の姿をお母さんも楽しそうに話してくれます。が、そうは言ってもうまくご飯を飲み込めなかったり、車いすの移動にも制限があるので、彼に対してお母さんがしてあげなくてはならないことは山のようにあります。だからきっとT君もお母さんに自分が何かをしてあげたいのではないかな と思ったので、「ゆらゆら体操」をやってみました。するとやっぱり!!うれしそうな顔でいつまでもいつまでもやっていました。この時も私はT君の後ろにいました。そしてT君の体を支えて、手の所を私の手で覆って彼の動きに付き合ってみました。するとおもしろいことに、彼の手が色々な所に揺らしながら移っていくのでした。移っていくとお母さんが「あぁそこも気持ちいいわ」といって喜んでいました。なんだか気持ちいい所に自然と手が行く感じがしてとっても不思議でした。
その後、歌を歌ったり、ピアノを弾いたりしました。ピアノを弾く手が良く動いていたり、積極さに拍車がかかって何回もピアノを弾いていました。もうたくさんのことをやったので、今日はお母さんと字を書く練習はやめにしていいかなと 私が言うと、なんだか不満げな顔。これは行けるかも!と、私の心の中で電気がぴかっと光った。「じゃぁ手のひらで○か×を使ってやるかやらないか教えてよ」と言って「やりますか」と聞くと、お母さんの手に○としっかり書いていました。やった!!!その後のドリルの問題も今までと違って手に力が入り過ぎず、リラックスしてやっていました。
人のために自分も何かができるんだと思うその気持ちは、その人の中にある今まで発揮し切れていなかった力を引き出すだけでなく、気負いまでもをそぎ落とすそんなパワーがあるのですね。そしてあるがままのその人を、一人の完璧な人間としてそこに存在しているそんな感じがするのだなと、その様子を見て感じました。そしてT君が最後に、「ぼくが、ぼくが、ぼくがお母� ��んにやってあげられた」と何回も筆談で書いたのがとても印象的でした。この「ぼくが」を求めている人が他にもたくさんいるんだろうなってつくづく思いました。ぜひ「ゆらゆら体操」を子どもにやってもらって下さい。気持ちいいですよ。