2012年5月19日土曜日

藤谷治の読書日記



4月11日(月)
東日本の災厄が始まって一ヶ月。長いひと月だった。
なぜ長かったのか。
一義的には、生活が困難だったからである。明日どうなるか判らない日々が続いた。東京の困難など、東北や北関東
の困難にくらべたら、どうということもないが、それでもそれは恐怖だった。あって当たり前だったものがなくなった。ペットボトル
の水や牛乳がスーパーから消えた。電車も走っているかいないか判らなかった。電気も使えなくなったり、使えなくなるかも
しれないといわれた。空気を吸っても放射性物質が混ざっているかもしれないと報じられた。
これらのことが起こって、なぜ、このひと月は長かったか。
それはすべての人間が、自分の人間性を露呈させたからだ。
生命が脅かされた。だが脅威のレヴェルは人それぞれに違った。目前に津波や火事の迫ってきた人もいた。頭の上から
ガラスが落ちてきた人もいた。放射性物質に覆われる人もいた。電車の中から出られなかった人もいた。電気の止めら
れた人もいた。買い物が不便になっただけの人もいた。水も牛乳も飲む気はないが、お気に入りの煙草がなくなって当惑
しているだけの人だっていた。そのすべての人たちの立っている地面が、今も毎日揺れている。これは千年に一度の大震災
だから、もうあと999年揺れない、などと思っている人はいない。明日どうなるか判らない。静岡も揺れた。東海地震はどう
なるだろう。今次震災は震源地をひとつとしない。いくつもの地震が連動して起こっている。関東大震災が再び起こるのでは
ないか。
口先だけ、指先だけで語り書いていたような主張や思想は出る幕を失った。代わりに出てきたのはその人その人の本当の
主張であり思想である。黙ってことに当たった人。なりふり構わずぎゃーぎゃー喚きたてた人。慌ててトイレットペーパーを買い
占めた人。被災者が可哀想だから慰めようとした人。悪いのは自分ではなくどこかの誰かだと怒った人。おのれを犠牲にして
人を助けた人。金をくれてやったといって自慢する人。逃げる人。泣く人。火事場見物に行く人。
これらすべてが各人の主張、個々の思想なのだ。いや、このひと月は慌ててしまって、あるいは情報に振り回されて、あんな
ことをやったりいったりしてしまったが、あれは本来の自分ではない、というのは逆である。あれこそがあの人の姿だったのである。
思想とは何かを考えることだ。何かを考えるとは冷静さと切り離せない。その人にどんな偉い思想があろうと、その思想がその
人を冷静にさせないのなら、それは指先だけ、口先だけの思想にすぎない。
だからあなたは、このひと月に自分が何をしたか、忘れないようにしたほうがいい。それがあなたの本来持っている、長所と短所
だとわきまえた方がいい。思想の限界を知った方がいい。このひと月は、「自分はこういう人間であった」という姿を突きつけら
れたひと月だった。だから長かったのだ。

4月2日(土)
前回の日記で、なんで東京を捨てて逃げ出す人に抵抗を感じてしまうのか、ということを書いて、途中でいやになって
やめたが、あれから考えて、そうだったか、と思うことがあったので書いておく。
といっても話はごく単純で、「東京は危険だから逃げる」と考える人は、「東京でなければ安全だ」と思っている(らしい)
から、僕はいやなのだ。
今の東京は不安である。スーパーマーケットに水と牛乳と、卵とヨーグルトがない。エスカレーターは動いていない。都知事
は花見をやめろという(岩手や福島の酒を大量消費する大きな機会を奪えというに等しい)。そして何より、「放射能」が
空から降ってきて骨を溶かして癌にかかる。不安だか� �危険である。だから東京を捨てよう。大阪なら安心だ。九州なら、
沖縄なら、日本の外なら安心だ。
そんな風に「命」というものを考えているなら、人生というものを考えているなら、そんな人の話に耳を貸す気にはなれな
い。安心? この世のどこに安心な場所があるというのだ。人は放射能を浴びなくても死ぬ。健康に気を使っても死ぬ。
崖から落ちても自動車にぶつかっても死んでしまう。子供だって甲状腺がんにかからなくても、親から殴られれば死んで
しまう。死ぬだけでなく苦しむ。ヤレ放射能だ、怖いといって東京から逃げ出している人は、そこまで考えが回っていない
かもしれないが、東京のどこかに老いても辛くなく、ただ安楽な生命がいつまでも続く場所があるという、唾棄すべき夢
物語に� ��がっているだけである。
地震がある前も原発が事故を起こす前も、僕の命は不安で危険だったのである。命というのは本来不安で危険な、
頼りないものなのだ。こんなことは当たり前すぎるほど当たり前のことなはずだ。テレビやネットの情報に怖気をふるって、
人間たちを振り捨てて東京から逃げだす人は、本当の災厄に呑み込まれ、死ぬべきでないのに亡くなってしまった一人
ひとりの「命」を、侮辱しているようにさえ僕には思える。現実の放射能汚染の危機、現実の風評被害にあっている、
生き残った我々東日本の被災者に対する彼らの振る舞いは、そう思えるだけでなく、はっきりした侮辱ではなかろうか。
僕は明日死ぬかもしれない。それは僕が東京にいて、放射能を浴びたからかもしれない。僕は死� �たくない。死ぬかも
しれないとなったら逃げる。だがそれは僕に刃物を向けてくる者がいたり、自動車が突っ込んできたらの話である。津波が
来たら、妻を置いて逃げることはできないだろう。妻が助かったら、今度は両親や兄妹の家族、妻の両親や兄弟も助から
なければ済まない。彼らが全員無事なら、さらには飼っている猫を救わずにはいられない。
地震や津波で被害にあって、生き残った人たちの中には、それとまったく同じ気持ちでいながら、どうしようもなくそれができ
なかった人も少なくない。自分が生きていること、助かったことを、耐えがたく思っている人がいる。「悲しい」という言葉は、
この「自分が生きている」ということからしか、本当につかむことはできない。東京を逃げ出した人たちが 、東京の放射能
汚染を真剣に恐れ、津波の襲来と同じように危機を感じているのなら、津波と違って時間的な余裕はあるのだから、
自分ばかりでなく、親や兄弟、兄弟の家族、友人とその家族、社員とその家族と家族の友人まで、一切合財連れて
行ったらどうなんだ。いやそこまで危険じゃありませんよなんていってるほうがおかしいんだろう? 今の生活に固執している
人々を無理に引っ張っていくしかないじゃないか。彼らの考えている通り、東京が放射能に襲われて、僕たちが皆死ん
だら、彼らは何というのだろう。ほら見たことかというのだろうか。いわないこっちゃないというのだろうか。それは構わない。だが
彼らが「悲しい」というのだけは、僕は許しえない。

3月28日(月)
東京から逃げ� ��す人、いるよねえ。
芸能人にもいるみたいだし、作家の人にもいるみたいだねえ。地震が怖いのか、「放射能」が怖いのか、とにかく東京を
捨ててるよねえ……。
あれ、別に悪いことしてるわけじゃないよねえ。人の自由だもんねえ。好きなときに、あっち行ったりこっち行ったりして、別
にいいんだよね。
でもさー、なーんか、いい印象がないんだよねえ。僕だけかもしれないけど。
なんでいい印象がないのかなあ。
考えてみたら、僕は別に、逃げられるんだよね。小説家だからね。どこででも書けるからね。家族も妻と猫しかいないし。
そういう自由業みたいなんじゃない人は、逃げ出してる人のこと、憎たらしいのかな。自分が逃げられないから。ということ
は、自分も逃げたいのかしら。
逃げ たい人とか、逃げてる人は、怖いから逃げてるんだよね。僕は怖くないのかねえ。どうなんだろうなあ。少しは怖い
かなあ。今週の「週刊現代」とか、すごい煽ってるみたいだしねえ。でも「週刊現代」の編集部って、今もまだ東京に
あるんだろうな。多分だけど。
考えながら書いていると、文章がだらだらするねえ。
東京から逃げちゃいけないわけ、ないよねえ。いいよ。谷崎潤一郎だって、関東大震災が怖くて関西へ逃げたんじゃ
なかったっけ。それで上方を舞台にした「卍」とか「細雪」なんかが書けたんだよね。谷崎が「大谷崎」になったのは、彼が
震災にびびったからだ。あと室生犀星だって関東大震災のとき金沢に帰ったけど、そのおかげで中野重治は彼に会えて、
それが中野重治が後年、室生犀星� �全集作ったりすることにまでつながったわけでしょ。よく知らないけど。
怖いから東京なんか放り出して逃げる。いいよそれで。怖くなくなったら帰ってくる。いい、いい。
でも、なーんかそういう人のことを「そういう人なんですね」って、思っちゃうんだよなあ。
なんだよ「そういう人」って、そういう人ってどういう人。あー文章がだらだらとー!
そういう人、っていうのは、つまり「別に東京って土地なんかどうでもいい人」のことだな。多分。
僕が逃げ出さない理由はいくつもあって、まず家を買ったばかりだし、逃げ出したら金もかかるだろうし、自分たちだけ逃げ
ればいいのか、親はどうする、親戚は、友だちは、って思っちゃうし、いつまで逃げていればいいのか判らないし、途方もなく
面倒く� ��い。だから逃げていない。
だけど、その一番最後の、一番どうでもいい理由のひとつに、東京しか住みたいところがない、っていうのがあります。東京
都と神奈川県にしか、僕は住みたくない。沖縄の八重山なんか大好きなんだけど、ごめんなさい、今の僕にはやっぱり
不便だ。
1998年からこっち、海外旅行をいっぺんもしていないのも、同じ理由だと思うけれど、僕は結局、土着的な人間なん
だな。
土着的な人間って、さくっと逃げられる人が、うらやましいんだな。きっと。
でもって、そういう人が、東京を「土地」と思っていなくて、一個の「機能」としか思っていないように感じるんじゃないかな。そ
れが悔しいというか。
ああもう自分の文章がいやになったのでやめる!


トップ10アルバム英国

3月26日(土)
島田雅彦氏が、今度の災厄にともない「復興書店」という企画を提唱していて、僕も小さく参加することにした。今、参加
を表明している文筆家のあいだでメーリング・リストが回っている。
僕の理解では「復興書店」というのは、本を出している人が自分の本を持ち寄り、それにサインなどして売り、売り上げを
復興支援にあてる、というものである。ネット上の書店になるようだ。
だから僕も自分の本にサインをして、俳句などいろいろ付け足して、送ろうと思っている。送付先がまだ判らないので、「フィ
クショネス」の一隅に積み上げている。
「復興書店」にできることは、ほかにもいろいろあるのでは、ということ で、さまざまな人たちが、さまざまなことをメーリング・リスト
で書いている。島田氏も提案している。
それについて僕は一切何もいわないことにしている。いいたいことはある。あるけど黙っている。いいたくなったときには、しょうが
ないから家でいっている。
文学者はいいたいことをいうべきだ、とは、僕はまったく思わない。いうべきことはいうべきだが、いいたいことにはいうべきでない
こともある。「いいたいことをいうべき」というのは、未成熟な考えだと思う。言葉の暴力にもつながる。
かつて湾岸戦争に自衛隊が派遣されたとき、文学者が集まって反戦声明を出したことがあった。その声明はふたつあった。
「声明2」は、日本国憲法には戦争放棄の項目がある、この憲法の理念は普遍的であ� �、日本は戦争を放棄した上で
国際貢献すべきである云々、という内容の、数行にわたる長いものだった。一方で「声明1」は、「私は日本国家が戦争に
加担することに反対します。」というだけのものだった。
「声明2」は、「声明1=私は日本国家が戦争に加担することに反対します。」を、文章の意味内容として含んでいただろ
う。ならなぜ声明はふたつに分かれていたのか。柄谷行人氏の対談や何かを当時読んだ、記憶と憶測で書くのだが(だから
正確ではないし、事実でもあるまい)、「声明1」では不充分だ、いいたいことがいえてない、という意見が、文学者たちの中
にあったようなのだ。
それに対して、いや、いいたいことを縷述していたら、必ずそれに反対意見が出る、不平不満も出る、「声明� ��」でとどめておく
のが集団での声明というものだ、細かいことは一人一人が書いたらよかろう、といった文学者がいて、それで声明は二つに分
かれた、というようなことだったと思う。
「復興書店」についても、同じことがいえると僕は思う。島田氏や参加者の意見や提案に対して、僕はいろいろいいたい。でも、
いってどうなる。みんな善意なのだ。善意かならずしも無害ではないかもしれないが、この場合は誰に迷惑をかけるわけでも
ない。無害な善意に水を差すのは、いたずらに無礼であり、大人げない。大人げないことを自由のあかしとでもいいたげに
振りかざす作家もいるかもしれないが、そういう考えは僕にはない。
なので僕は黙って、ただ幾冊かの本を提供する。「復興書店」の、どういうところ に何をいいたいのか、今後もいわない。

3月25日(金)
災厄以来、ようやく仕事を再開する。具体的には、小学館のために書き始めていた小説『津々見勘太郎』の第一回に
手を入れただけだが、この日記を書き終え次第、第二回にとりかかるつもりだ。
僕はこの間、日常生活上の些細な困難をひとつひとつ解決していくことのほかは、この日記に書きながらアップしなかった
ものなども含めて、ひたすら文学について考えていた。
もう僕は文学や芸術という言葉を口走ることを恥ずかしいとは思わない。見知らぬ人に小説を買ってもらい、読んでもらっ
ている以上、自分の言葉に影響力があることも受け止める。
なぜなら災厄以後、小説を含む文学は、求められている気がするからだ。実際、編集者から聞� ��て驚いたが、本は売れ
ているそうである。通電の不安定や、テレビの問題などもあるだろうが、僕はこれを、文学者の言葉がこれまでよりもはるか
に有責となった兆候ととらえる。事実はともかく、僕はそのつもりでこれからの仕事をする。

3月23日(水)
東京都の金町浄水場で、食品衛生法に基づく乳児向けの暫定規制値を上回る210ベクレルの放射性ヨウ素131
が検出されたとの報があった。
僕は外出していて、この報告が政府からなされたときに、テレビを見ていなかった。帰りがけにちょっと買い物していこうか
と思ったら、スーパーから水も牛乳もヨーグルトもなくなっていて、オヤオヤと思ったのだが、帰宅後これを知り、あーこんな
こといわれたら誰だってパニックになるよなあーと� �鬱になった。
判らないからパニックになるのである。このニュースの「イメージ」は、東京の水道水が放射性物質に汚染されて、飲めば
髪の毛が抜けて骨が溶けて癌になる、乳児が死病に冒される、そんな気がしてしまう。
政府が情報を隠していないことを示すために、こういう報告をするのは判るが、報告だけしているのは、また報告だけを
ニュースで垂れ流しに流しているのは、非常によくないことだと思う。
だいたい、「食品衛生法に基づく乳児向けの暫定規制値」とは何のことなのか。調べて僕はびっくりしたよ。
そもそも食品衛生法に、放射性物質に関する規制値ができたのは、福島第一原発の事故があってからなのである。まだ
二週間経っていないのである。だから原子力安全委員会から、基準を引� ��張ってきたのである。だから「暫定」なんである。
ではそれはどんな基準によるのか。

「一年間、その放射線濃度の食物を、平均摂取量で摂取し続けたとき、被曝線量が、5ミリシーベルト以下」
藤谷が普通の言葉に翻訳して、もう一度書く。「それとまったく同じものを、一年間、毎日毎日、普通に食べ続けて、
身体に放射線が、5ミリシーベルト入ってきたら、アウト」

白血球が「一時的に」減少するのが、500ミリシーベルト。一時的だから、のちに回復する。
それよりさらに小さいが、しかし何らかの影響が人体にあらわれるのが、100ミリシーベルト。
つまりこういうことだ。今日の水道水を毎日毎日、普通に飲んで、一年間飲み続けると、人体に影響を与える放射線量
の、20分の1より 多くなる。
もちろん、明日の水に含まれる放射線が、今日より少ないとは限らない。多くなるかもしれない。少なくなるかもしれない。
判らない。判らないことを、政府は発表して、マスコミも報道していることになる。
ふざけるな!
(追記:24日に同じ金町浄水場で調べた結果、放射性ヨウ素131は減少し、乳児に与えても問題ないとの判断が下っ
たそうである。)

人は新聞を読んでも見出ししか読まないし、テレビを見ても最初のひと言しか聞かない。イメージでしか報道をとらえない。
マスコミで仕事をしていれば、それくらいのことは骨身に沁みているはずなのに、この期に及んでも週刊誌は人々の恐怖を
電車の中吊り広告で煽り続けている。このあいだもアエラという週刊誌が、防護マスクの� ��ップの写真の上に「放射能が
来る」とだけ書かれた表紙で売り出し、人々のひんしゅくを買った。
「放射能」というのは「放射線を出す能力」のことである。ウラニウムは放射線を出す能力があるから、「ウラニウムには放射
能がある」という言い方ができる。「放射能が来る」なんて、日本語になっていない。放射能といえば原爆のイメージである。
「放射能」という、目に見えない悪鬼のようなものがいて、じわじわと僕たちをいびり殺しに来るイメージである。そんな愚かな
イメージは事実に即していないとアエラが思っているのなら、なぜこんな絶対に間違ってはいけない日本語のあやまちをあえて
犯したのか。怖いぞ怖いぞ、放射能が来るぞ、と、人の怖がるのを見て楽しんでいるのと変わりはない。馬� �が。
こういう事態において、言葉を扱う職業人は、自分の仕事に責任を持たなければならない。枝野官房長官がこういったから、
すぐ放送しないと「他局に抜かれる」「時間がない」などと、絶対に思うべきではない。自分のいおうとしている言葉を、自分で
理解していないうちは、口を開くな。そんなことは常識だろう。僕は今次の災厄で、少なくとも民放テレビ局の報道に対する
信頼を、かなり損ねた。
一方で、24日の新聞報道によると、福島第一原発の3号機において、作業員三名が被曝して病院に搬送されたとのこと
である。被曝線量は170から180ミリシーベルト。数値を見て思わず神様に手を合わせてしまった。僕にはほかに、何も
できない。


マライア·キャリー、どの国から来たのでしょうか?

3月17日(木)
マガジンハウスから24日に『船上でチェロを弾く』という、書き下ろしの音楽エッセイ集が発売される。今日あたり見本
が届くことになっている。
新刊の印税の一部を、被災地復興支援に充てると、小説家の幾人かが表明している。
彼らの善意を僕は尊敬する。今日の報道でも、個人が物資を送ろうとしても、箱の中に何が入っているか判らず、
作業が煩雑になってしまい、必要とされているところへ送りにくくなっている、という話を聞いた。被害のない地域、少な
い地域にいる人たちにできる、最上で最善の援助は、現金と節電だ。
東北と北関東の広い地域で、多くの人が困窮を極めている。働 きたくても働くどころではなく、今日の水や食料にも
困りながら、不安と情報不足に眠れない夜を過ごし、さらに今後の生活、大地の再生、社会の復興という、途方も
ない課題に押し潰されそうになりながら生きている。
僕は自分が募金に応じるのは、当然のことだと思っている。
そしてその上で僕は、新刊の印税の一部を募金に充てると、表明しない。
僕は自分の収入から募金に充てる。
僕の収入は大半が印税と原稿料収入である。読者によって僕の生活は支えられている。新刊の読者に限らない。僕
の出した本を読んでくれた総ての人は、我が友である。ある本の読者は購買によって募金に応じたことになり、他の本
の読者はそうならない、というのはおかしい。
募金には経費がかかる。お金の経路も� ��雑になる。僕が各所から入ってきた収入から、お金を送れば、経費も複雑さ
もない。偽善的ないい方かもしれないけれど、友から送られてきたお金を、別の友に送ることにもなる。
それはつまり、あなたが募金に応じるのと、まったく同じだ。あなたの収入は、憎たらしい会社から受け取ったものかもしれ
ないし、苦しい労働の果てにようやく手に入れられたものかもしれないけれど、セブン・イレブンでレジ脇のプラスチックの
箱入れたお金、サンドウィッチマンの「東北魂義援金」に送ったお金、日本赤十字社に送ったお金は、あなた個人から、
苦しんでいる未知の友へ必ず届く。
小説家の送るお金が、あなたのお金より尊いとか偉いとか、それよりくだらないとかいうことはないはずだ。まったく等価で
あ る。僕はそれを実感したい。だからこれを書いたら、いますぐ銀行へ行ってくる。日本赤十字社の口座は僕のメイン
バンクと同じなので、手数料がかからなくていい。
繰り返すようだが、僕は他の小説家が印税を寄付するといっているのを、これっぽっちも否定しない。それどころかその
表明は重要だと思っている。なぜならそれは気運を盛り立てることになるからだ。マスコミが報道してくれるといいと思う。
小説が何冊あっても怪我人を治療することはできないが、小説家も一人の人間として、やるべきことはやる。
そういうわけで、アマチュア音楽家の皆さん、クラシック音楽愛好家の皆さん、『船に乗れ!』読者の皆さん、『船上で
チェロを弾く』を、どうか普通に買ってください。よろしくお願いいたしま� ��。

16日続き(メモ)
小説家に何ができるだろう。小説を書くこと以上に役立つことがあるかもしれない。その可能性を考えることは、必ず
しも僭越ではないと思う。けれども僕はやはり小説を書くことが自分の能力の最大限であると、これまでの人生で思い
知っている。書こう。
だがそれは漫然とした作品であってはならない。根本から人を励ますものでなければならない。一方で、世間の様子
を伺いながら書くものであってはならない。今のような非常時であっても、その原則は変わらない。自由で自発的な
作品でなければならない。
その偉大なモデルがふたつある。ひとつは谷崎潤一郎の『細雪』、もうひとつは川端康成の『雪国』だ。どちらも戦前、
戦中、戦後を通じて書き継がれた小説であり 、僕は「戦争文学」だと考えている。そしてどちらも、戦争については
あまり触れられておらず(『雪国』では皆無)、にも拘らず、発表された当初、多くの読者を得た。これはどういうこと
か。これらの作品には、励ましや読者の発奮を促すものは何もない。「励まし」には、やればできるとか、負けるもの
か、というようなものとは別の種類もあるのではないか。それは何か。
考えろ藤谷治。考えろ。

3月16日(水)
この数日、余震や電車の不通、それに計画停電の可能性などにおびえて、家にいることが多かった。強い余震の
可能性は低くなったと報じられながらも昨夜は静岡県富士宮市で震度6の地震があり、報道によればこれは「別
の地震」で、余震ではないそうだ。今度の震災で明らかになっ� ��ことのひとつは、人間は地震について、まだあまり
にも多くのことを知らないということである。
日本の耐震設計が優れていることは、ある程度証明できたと思う。だが一方で、地震そのものよりも、地震が引き
起こす災害のほうがはるかに恐ろしいということも確かめられてしまった。関東大震災では火災が人命を奪い、今次
の震災では津波が東北や北関東を破壊した。そして電力供給の不安定と、福島県の原子力発電所の事故は、
いまだ沈静の気配がない。
とりわけ情報が曖昧である。状況が安定していないのだから、致し方ないのかもしれないが、世田谷区でも通常値
を上回る放射線が検出されたというような報道があれば、世田谷区だけでなく、東京にいる人間が恐慌に陥るのは
避けられない。
� �ぜ恐慌に陥るかというと、放射線に対する正しい知識がないからである。というか何ひとつ知らないからである。さら
には、聞いてもよく判らない、もしくは判らない気がしてしまうからである。だからここに、これまで調べた最低限の知識
を書いておく。
1マイクロシーベルトは、1,000,000(100万)分の1シーベルトである。
1ミリシーベルトは、1,000分の1シーベルトである。
X線写真を撮るときは、0.05ミリシーベルト被曝する。
この「被曝」という言葉も、まぎらわしい。原爆の被害者は「被爆」である。「日へん」と「火へん」で大きく違う。「被曝」は、
放射線を浴びることである。
自然の食物からは、0.29ミリシーベルトの自然放射線が放出されている。
大地からは、0.48ミリシーベルトの自� ��放射線が放出されている。
「自然放射線」と「原爆放射線」には、違いはない。
もっとたくさんのことが、厚生労働省のホームページ「原爆放射線について」に掲載されている。

これを見ても不安がなくなるわけではない。今後どうなるか判らないのだから。だけど怯えるなら、少なくとも正確に、
しっかりと怯えたいものだと思う。

3月12日(土)
小田急線復旧を確認して「フィクショネス」へ。昨日はなんともなかったプライヴェート用の本棚ひとさおが倒れていた。
チェロ無事。自宅へ持ち帰る。

なお、3月13日(日)の「文学の教室」はお休みします。「フィクショネス」の営業は月曜から始まる停電の状況を
見て判断します。ご容赦ください。

3月11日(金)
「フィクシ� �ネス」近くで知人と話しているところへ地震。レンタルビデオ「ドラマ」のDVDは棚から落ち、セブンイレブンの
入っているビルは左右に大きく揺れ、頭上の電線波打つ。揺れが収まり店内点検するとテーブルから本が落ちている
ほかは意外にも異常なし。チェロも立ったままで驚く。家人に電話しても通じず情報なく、小田急線も緊急停車中
にてやむを得ず徒歩にて帰宅。途中公衆電話での見知らぬ人との譲り合いや歩いている人とのちょっとした声かけ
などある。経堂過ぎたところでタクシー捕まえるも、背後にいたお婆さん数名に譲る。祖師ヶ谷大蔵近くでようやく
タクシー乗れる。家内大いに揺れたとの由、家人も猫も無事。お互いの家族も無事を確認。

3月6日(日)
字というのは、一体どうやっ� �らうまく書けるのであろうか!
去年鎌倉で川端康成と三島由紀夫の字を見て、義父からとてもいい硯などを貰って、筆や筆ペンで練習している
のだが、いつまで経ってもうまく書けないし、今以上になると思えもしない。川端みたいな気持ちの悪い字でなくても
いいから、何とかこのオコチャマみたいな字でなくて、しっかりした文字を書いてみたいものだ!
つまり楷書でなく行書を書きたいということだ。楷書は何とかなっても行書は怖い。崩し方が判らないし、丸くなっちゃ
いけないところなのか、丸くしなきゃいけないところなのか、とか、そういう知識なしでは書けない。知識があっても腕が
追いつかん。楷書は何とかなってもって今書いたけれど楷書も書けません。ひらがなが書けないんだから話にならん 。
「え」「な」「ゆ」は難しいナア。書いていないと書かなきゃと思うのに書いていると書きたくなくなる。
自分の字が好きなのだ。だもんだから上達しない。
んー。
こんなこと日記に書いてもしょうがないな。

2月26日(土)
先日の日記を、驚くべし、樋口毅宏氏ご本人がお読みになり、ツイッターを通じてコメントをいただいた。ネットで人
との距離が近くなったのには、毎度ながらびっくりする。樋口氏とは一面識もないのである。それなのにツイッターで
やりとりをしていると、なんだか親しさを感じてしまう。
僕は『雑司が谷R.I.P.』だけが昨年の労働ではあるまいという意味のことを書いたが、これは完全に僕のあやまっ
た認識だったようだ。樋口氏によれば昨年はこの一作のみ を書いたのだそうである。『民宿雪国』は二年前に書き、
出版社にボツにされ続けたのだそうである。不明を恥じてここに訂正しておきます。
これを聞いたらなおのこと『民宿雪国』を応援したくなった。この問題作をボツにした出版社の編集者は、今頃ホゾ
を噛んでいるだろう。祥伝社は偉い。そしてうまいことやった。


どこに曲の名前は何です私はあなたのように歌詞を見逃す行きました

去年、京都精華大学に招かれたとき、大学生を相手にするんだからと、何となく新幹線で『三四郎』を読み始めて
以来、夏目漱石ばかり読んでいる。今『文学論』を岩波文庫で読んでいる。近年出た岩波文庫版は、引用の
英文に翻訳がついているうえ、旧仮名使いなので読んでいて嬉しい。ついに読める。
漱石論も同時に読む。昨夜読了した石原千秋『漱石はどう読まれてきたか』(新潮選書)は便利な本で、国文
学者たちの書いた膨大な漱石論の中から、ユニークなものをピックアップして紹介してくれている。頭のいい学者の
人たちが苦労して書いた漱石の目覚しい読み方を、楽して頭に入れられる� �は贅沢だ。
ただこの本を読みながらちょいと疑問に感じたことがある。石原氏は「テクスト論」の立場だそうである。テクスト論と
いうのはどうやら、書かれたものの記述にもとづいて、作者の意図からは自由に読んでいこうという立場らしい。じゃ
そのテクスト論をこの『漱石はどう読まれてきたか』に当てはめてみるとどうなるかというと、著者石原氏はもとより、
ここに紹介された論文の書き手たちが、なんで他の文学者でなく、夏目漱石の作品を取り扱っているのか、その
理由がこの本には見当たらない。
僕が漱石の書いたものを読んでいるのは、漱石を尊敬しているからである。一方でこの本には、漱石を尊敬して
いるとか、愛しているとか、憎くてたまらんとか、そういう、あって当たり前の漱石論� ��理由、執筆動機がない。論文
は紹介されてるだけだから、全部を読めばそういうことが書いてあるのかもしれないが、とにかくこの本には漱石への
執筆者の感情がゼロなのである。
「はじめに」という序文がある。この冒頭に石原氏の回想が書かれている。高校時代に友人宅を訪れると漱石
全集があって、それを見せる友人の口吻を「自慢げ」に感じた、という回想である。
その続きは漱石死後百年、その作品が「よく読まれるようになった」ということが書かれている。さらに戦後は漱石
作品が「中産階級の正規のカリキュラムに組み込まれた」「定番教材」になった、とあって、「漱石文学は文芸
評論家や文学研究者にとって新しい読みの実験室のような役割を果たしてきた」と続く。
ん? すると研究� ��たちが漱石を読むのは、その人個人が漱石を好きとか嫌いとか、そんなこととは関係がない
のか? 好きでもなく嫌いでもないが書いているのか? 役所や会社の書類みたいに、仕事だから書いているだけ
なのか? なんだそれ?
僕の漱石に対する尊敬の気持ちにとって、漱石がおそろしくポピュラーな「国民作家」であることは、邪魔なだけ
だ。イメージだけでいえば「何を今さら漱石なんて」としか思えない。そのイメージにさからって漱石を読むのは、
それだけでもなかなか辛い。
定番教材だから、国民作家だから、実験室だから読む、というのは、文学うんぬん以前に、人間として主体性
がないのではなかろうか。
そんなわけがないだろう、尊敬しているに決まってる、当たり前すぎるから省略して� ��るだけだ、ということなのかも
しれないが、それはこちらの忖度、推測であって、とにかくこの本には、「私は漱石の書くものが好きです」「嫌いで
す」という言葉は、全然書かれていない。

2月25日(金)長いよ。
先日この日記で少し書いた『民宿雪国』の著者、樋口毅宏氏が、新刊『雑司が谷R.I.P.』(新潮社)の巻末
に、異例の一文を掲載した、という報道を読売新聞で読んだ。
報道によればそれは、公立図書館での本書の貸し出しを半年間猶予して貰いたい旨の依頼だそうである。
読売のネット報道を引用すると、「樋口さんは『(増刷されなければ)僕の昨年の労働の対価は、印税の96万円
だけ。このままでは、皆が卵(本)をただでもらううち、鶏(著者)はやせ細り、死んでしま� �』と話している」そうだが、
これは「昨年の」ではなく、「この本の」ということだろう。『民宿雪国』は昨年末に出版され、書評も多く、恐らくは
増刷もされているはずだ。
別の報道(スポニチアネックス)によれば、この依頼について「日本図書館協会の松岡要事務局長は『樋口氏の
主張は理解できる部分もあるが、全ての人に本を読む機会を提供する図書館の公共性を考えると受け入れ
がたい。法的にも貸し出すことに問題はない』と話している」とのことである。
艱難辛苦の果てにようやく上梓できた真新しい本を、買われずに読まれるというのは確かに忌々しいことである。
「藤谷さんの小説、大好きです! 図書館で全部読みました!」なんていわれたり、僕の目の前で二人の人が、
「この本、� �白かったよ、今度貸してやるよ」なんて話をしていたりすると、どう考えたらいいか判らなくなる。
どう考えたらいいか判らないから、考えず直感で思うことにするが、これはヤセ我慢をするしかないのではなかろうか。
一冊の本に対し96万円しか入ってこない人に向かって、ヤセ我慢とはずいぶん無責任だということは承知している。
だけど僕だってそんなもんだ。苦労して書いて96万円じゃ食えない。しみじみよく判る。だけど樋口氏も僕も、まだ
餓えて死んでない。図書館があってブックオフがあるために、食うにも困り家賃も払えず、着るものもなくなってコン
ビニでも雇ってもらえなくなったら、野垂れ死にも悔しいから、そのときは図書館に爆弾を抱えて飛び込むかもしれ
ないが(僕はね)、今のと ころはまだ大丈夫だ。
ヤセ我慢をして図書館にいくらでも本を置いてよろしいと口先だけでいう、というのは、僕の態度であって、樋口氏
が間違っているとは思わない。それどころか僕は弱虫で樋口氏は勇敢だ。これが図書館に対する、あるいは社会
全般に対する、小説家からの問題提起になっていることは間違いない。
なぜならこれは単に経済的な困窮の問題にとどまらないからだ。いくらなんでも今の社会人は文学を軽視しすぎて
いる。
文学が社会人から軽視されている理由は、きっと文学にもあるのだろう。柄谷行人じゃないけれど、今や文学は、
人生いかに生きるべきかという倫理的な問題を、おろそかにしている。もっといえば、どう生きたらいいかなんて考え
ない人間や、そんなこといわれたって 困っちゃうような人間が文学をやっている。社会の流動性についていくのが
精一杯だとか、価値観の多様化した現代に倫理などナンセンスだとか、文学は多様に読まれるべきもので、
教条的にこれが正しいなんて思って書いてはいけない、なんていうのだって、結局は責任回避だ。人はどうあれ
自分はこう思うと、あきらめずに考えていくのが文学じゃないか。「人生いかに生きるべきか」とは「人生はこう生きる
べきだ」とは全然違うのである。「生きるべきだ」は固定された解答にすぎないが、「生きるべきか」は問いである。
問いにはもともと無限の多様性がある。それを問わないで、そういう発想さえなくて、ただ書けるから書いている
文学者ばっかりである。毎日働いている社会人に、そんなものに付き合� ��ている暇のあるわけがない。書いている
こっちはただ書いているだけだが、それを読むなら金を出せとは、そうとう図々しくなければいえない台詞だ。
それでも文学に対する社会人の軽視は度し難いと僕は思うよ。だって2000円の本が高いから買わないっていって
る人が、飲み会に3000円、携帯電話に10000円、ゲームに30000円支払っても、安いな、なんて思ってるん
だから。文学がいかにおとろえたといっても、アブクのように消えてしまう飲み会や携帯電話のメールなんかより、はるか
に高級な、持ちのいい娯楽であることは確かだ(この確信が平然といえなければ文学なんかやってない)。手もとに
3000円あるがこれは飲み会に使うから、本は図書館で借りてすませる、というのは、� �会人の低脳化を図書館
が手助けしているようにさえ見える。

樋口氏の小説は、少なくとも『民宿雪国』は、1470円を支払うだけの値打ちがある。これは僕の判断力から責任
を持っていえる。この小説はグロテスクで残酷でリアリティはないが、素晴らしく面白いからである。人生いかに生きる
べきかという倫理的な問題提起も、ここには読み取れる。その問題提起には、僕は不満だけれど、その不満を僕の
中に生み出してくれたのは『民宿雪国』の功績だ。面白い! でもこんなのはイヤだ! というエネルギーを僕にくれ
たのだから。
ひるがえって藤谷治の小説はいかなるものぞというに、これはどれもこれも面白いものばかりである。面白くなければ
打ち捨てられる人間が書いて出版されているのだ から当然だ。藤谷著とあればどんなクズでも読むという有難い読者
は存在しない。だから出版されたものはどれも、面白いことは面白い。だけどこれまでの僕が果たして、面白い以上
のもの、つまりは倫理的な問題提起を、常に問い続けていたかとなると、自信がない。だらしのないものをずいぶん
書いてしまったと思う。
だらしのないものを書いてしまった理由はふたつある。ひとつは僕に才能が足りないからである。もうひとつの理由は、
一冊あたりの収入が少ないからだ。いっぱい書かないと生きていかれない。だから僕は、依頼に任せて書けるだけ
書いてきた。おかげで死なずにすんでいる。
これが一冊あたり、何百万円も入ってきたら、もっといい作品を書けたかもしれない、と思うこともある。才能� �足を
金でおぎなうことはできないけれど、追い立てられるように小説を書かなくてもいい境遇には恵まれただろう。
問題は、その境遇を奪った一因が、図書館にあるかどうかだ。
報道によると樋口氏は、図書館で『民宿雪国』の貸し出しを待っている人が44人もいたことを知ったという。あるん
だ、そういうこと。しかも図書館もリクエストに応じて、新刊本を五冊も十冊も買い、利用者の便宜をはかっている。
なんでそんなことをするのか、僕には全然判らない。税金で新刊本を買え、五冊でも十冊でも買えと利用者がいって
いるのだろうか。本は公共のサーヴィスなのか?
日本文芸家協会が、図書館に著者へ応分の補償金を支払うよう、国に求めているそうだが、それ以前に図書館
は、新刊を所蔵する� �してもせいぜい二冊ほどにしたらどうかと思う。それで貸し出しを待つ人が444人になって
も、それは公共のサーヴィスだからしょうがない。そこまでして読みたくないという人もいるだろうし、それでも読みたい
という人には、申し訳ないが何ヶ月でも待ってもらう。今読まなければ意味がないような本は、買って読んでもらう。
……と、これだけ書いておいて、なお僕はいうのである。著者はヤセ我慢をするのがいいと。
社会は文学者に心地よくできていない。むしろ文学者を殺そうと手を尽くしている。1000万の金が入るべきところに
96万しか入らないというのも、社会の策のひとつである。それは無法だからもっと稼げるように社会を改良しようとする
より、そんな社会を呪いながら、泥水を飲んで 生きながらえ、表向きはにっこり笑い、図書館で読んでくれた読者に
頭を下げて、いつの日か真水を飲めるようになるまで、血のインクに爪を浸して書き続けるほうを僕は選ぶ。カッコを
つけているのでも文飾でもない。ペンもインクも買う金があり、衣食住にもパソコンにも贅沢品にも困っていない今の
僕だが、覚悟だけは貧乏時代と寸毫も変わりないのである。


2月14日(月)
地獄のごとき多忙の日々が、ようやくおさまってこの日記を書く。このかんラジオドラマ、音楽エッセイ、連載小説の
締め切りがほぼ同日に押し寄せるという、あってはならない事態に対応するばかりで、民主党のこともエジプトの
ことも知らずひたすら書いた。書き終わっても仕事は終わらずゲラを見なければならなかった。も一度いうけど
こういうことをしてはいけない! 物書きというのはひとつひとつを大事に書かなければいけない。そして大事に書く
よりほかにない。忙しいからといって手が抜けない商売だ。おかげで頭痛には襲われる腹はくだす神経はぴりぴり
するで、自分ながら手が付けられなかった。さいわいなことに原稿はどれも編� ��者に受け入れられ、また不思議な
ことにこういうときにはなかなかしっかりと物が書けるもので、ひと息ついた今も書き飛ばしたものはひとつもなかった
と自負できる。僕のできることなどたかが知れたものだけれども。
そういうわけでこの何週間か、読むものといったら自分が書いたもの、もしくは今書いているものだけという情けない
ありさまだったので、さっそく読書をする。大島真寿美『ピエタ』(ポプラ社)と角田光代『八日目の蝉』(中公文庫)
は、どちらも刺激になった。
『ピエタ』。この題材は僕も書きたかった。18世紀のヴェネチアに、ピエタという女児専門の孤児院があって、そこで
住まう孤児たちに音楽を教授していたのが、『四季』でおなじみのアントニオ・ヴィヴァルディだったの である。この
小説はヴィヴァルディ亡き後のピエタを舞台に、女たちの心を描いている。
正直、この題材でヘタなことを書いたら鼻で笑ってやろうと思っていたのだが、数頁読んだ時点で気持ちの襟を
正した。どこと指をさせるわけじゃないが全体に漂う文章の美しさ。描かれる心の細やかさ。そして多様な女の
生きよう。音楽は主役ではないが肝心なところで現われ読者の感情をつかんでくれる。これ読んで思わずイタリア
合奏団の演奏する『調和の幻想』のCDを手に入れて聴いた。これってこんなにも溌溂とした名曲だったっけと
驚かされる。早くも今年の収穫の名作のひとつに出会えた。
『八日目の蝉』は評判になりすぎてこれまで食指の動かなかった作品。必要があって読んだがこれはさすがの名作
だ。『ピエタ』同様、登場人物の大半は女性で、女の心が襞に分け入る如く書かれているが、『八日目の蝉』は
暗く悲しい犯罪を扱っていて、僕などには決して書けない作品だ。暗いといっても世界観が陰気なのではない。
悲観的なのですらない。身勝手で無責任な男(たち)に翻弄されて取り返しのつかない犯罪に走る女を主人公
に、生命ということ、生命を育てるということを徹底的に描いている。それなのに全体の雰囲気はエンターテイメント
である。クライマックスでは泣いてしまう。
僕は前半の調子が説明的すぎる気がした。後半に行くに従って語りのうまさ、台詞のうまさに唸るようになった。
クライマックスではぐっと来ながらも、なんだよこれ、うますぎるだろう、うまさが鼻につくだろう、と思っ� ��しまった。だが
これらはすべて、ただの難癖である。この小説では徹頭徹尾、男はいい加減で嘘つきの加害者であるから、男の
僕は読みながら異議申し立てをしたくてたまらなかったのだが、この小説で糾弾されている男みたいな男は現実に
ごろごろするわけだから、黙って女の話を聞いているしかなかったのである。
『八日目の蝉』は、男には悔しい小説だ。だが男の書く小説に出てくる女を見て、悔しいと思う女はいっぱいいる
だろう。そんな男の書いた小説で、日本近代文学史は充満している。同じことを女の角田氏が男に向かって
やって何が悪い。こんなにいい小説を書けないものだから、僕は悔しがっているだけである。『ピエタ』だって悔しい
小説だけど、男を糾弾していないからハー良かったと思 っているだけである。
悔しかったらこの二作ほどの小説を書くしかない。よし。じゃ仕事しよう。

1月28日(金)
僕は見ていないのだが、昨日の「ミヤネ屋」という番組で、こういうことがあったそうだ。
この番組に、女芸人が芸能人の自宅を訪れて、風水で部屋を診断するというコーナーがあるのは知っている。
そのコーナーで岸部四郎氏宅を訪れた女芸人が、風水的によくないといって本棚にあった吉田健一著作集を、
ブックオフに一冊二十円で売り飛ばしてしまったというのである。
繰り返すが僕は番組を見ていないし、すべては番組の作り話、という可能性もある。この一件で番組には非難
が集中し、女芸人のブログは炎上したそうだ。作り物であれば、そんなに目くじら立てることもないんじゃ� ��いか、
ともいえる。
岸部氏が十五万円の価値があるといっていた古書を安値で売り飛ばしてしまったことや、本であるかどうかはとも
かく、氏が大事にしているものを勝手に処分(古書売却の場面に岸部氏は立ち会っていなかったらしい)したこと、
さらに岸部氏が病後であることなどが非難されているらしいが、僕がこの話を聞いて逆上したのは別の理由で
である。それは女芸人が、どうして古書売却を「風水的に」判断したのか、というところだ。
ネット上の報道によると、女芸人はこういうことをいったらしい。「本棚は風水的にその人の頭の中を意味する。
読んでない古い本しか置いてない人は頭の中が古い知識しかない。その人の知識にはほこりがかぶっている」、
だからこんなもんは売り飛ばし� ��しまいましょうと、そういうことだったんだろうか。
全部台本かもしれん。笑わすための作り話かもしれん。しかしだとすればこの番組を作った人間たちは、こういう
ことをやると視聴者が笑うと判断したことになる。テレビ番組というのは結構チェックが厳しいはずだが、それらチェック
した人たちも皆オンエアを認めたわけだ。誰もここに肝の冷えるものがあるとは思いもしなかったのだ。
「読んでない古い本しか置いてない人は頭の中が古い知識しかない。その人の知識にはほこりがかぶっている」。
吉田健一は二十世紀の人である。風水といったら三千年くらい前だろう。どっちが古いんだ。風水に比べたら吉田
健一など、ついこのあいだの人である。
読んでいない、というところが風水的にいけないと いうことなのだろうか。だったら今すぐ図書館行って風水的に判断
して来い。ブックオフが飛びつくだろう。まったくハラワタの煮えくり返る話だ。
古い知識「しかない」というところに重点が置かれているのか。新しい知識も入れなければならないのか。なんだその
新しい知識というのは。スマートフォンのことか。日経平均株価のことか。今次芥川賞受賞作のことなのか。「ミヤネ
屋」で取り上げている芸能ニュースのことなのか。僕には確信があるが、何も見ないで先々月の十六日に「ミヤネ
屋」のトップで取り上げたニュースをいえる人など、「ミヤネ屋」のスタッフにだっていないよ。ソラで同じ日の日経平均
株価の終値をいえる人も、三年前の下半期の芥川受賞者をいえる人もめったにいない。構うもん� ��、そんなのは
もう過去だよ、古いんだよ。これが彼らの考える「新しい知識」の正体だ。
本当の「新しい知識」というのはそんなものではない。それは個々の人間が、今、そしてこれから、手に入れる知識
のことである。あなたが今この時点で吉田健一を知らなくても、恥ずかしいことなんか何もない。これから興味を持っ
て著作集を読んでみればいい。そうしたら吉田健一は、その時、あなたにとっての「新しい知識」になるじゃないか。
吉田健一が世間的に古いか新しいかなんて、ファックである。
いっとくけど僕は芸能ニュースや株価がいらないなんて、これっぽっちも思ってはいない。それらも大事である。テレビ
番組も大事、吉田健一も大事。当然のことだ。僕は一方を大事にしようとして他方を軽ん じる、その尊大な態度
に腹を立てているんだよ!

1月19日(水)
日本橋で半日過ごす。
何をするでもなく、ぶらぶらと、あっち行ったり、こっち覗いたり。
おそば食べて……便箋買って……三越行って……紅茶飲んで……それだけ。
いい日だった。こういう日がないと、ノイローゼになりそうだ。

1月12日(水)
表参道で降りて、岡本太郎記念館へ行く。
いわずと知れた岡本太郎氏の住居である。前からいっぺん見てみたいと思っていた。名を成した美術家の住居
を公開しているというだけでも興味深い。そしてやっぱり、アトリエがよかった。天井が高くて、広々としていて、
アップライトのピアノもあった。
それから庭がいい。可愛らしい彫刻がどかどか並べてあって、草木が生えて いる。奥のほうにベンチとテーブルが
あった。ああいうところで一休みしていたのかな、なんて思うと羨ましかった。鐘を鳴らして遊んだ。
講演のCDを買った。相変わらず品がよくて、落語家みたいな喋りだった。岡本太郎の声を聞いていると、やる
気が出てくる。

夜は樋口毅宏『民宿雪国』(祥伝社)読了。
文学として読むと不満足である。マンガみたいな話だ。おまけに、陰気で陰気で気が滅入る。
そしてこれは、チョー面白い小説だ。
何を書いてもネタバレになるから書かないが、九十何歳かで死んだ国民的画家の人生を描いている。と書くと、
ハーそういう小説かと、あるイメージが浮かぶであろう。そのイメージは大事にしたほうがいい。読み始めてぶっ飛ば
される度合いが、それだけ大き� �なるから。僕は読みながらひっくり返ってしまいました。
こんなジジイがいたら一大事である。だけどなんか、一大事になってる感じの書き方じゃない。そんなことより……
という感じだ。それはいいのだろうか。あんまりよくないのではなかろうか。文学として読むと不満、というのはそういう
ところ。って、どういうところかこれじゃ全然わかんないでしょうね。陰気でエグイ話が平気なら、どうぞお読みください。


1月9日(日)
去年の秋からちびちびと、電車の行き帰りで読んでいた柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』(岩波現代
文庫)読了。二十年前に読んだ講談社現代文庫の同じ本は、今「原本」なんて付いてる。
柄谷行人氏は1980年代に近代文学は終わった、後に続いているのは娯楽にすぎん、という意味のことを、
繰り返し断言している人である。近代が終わって現代になったんだから近代文学もそりゃ終わっただろう、という
のは頓知の回答であって、柄谷氏は今の文学なんか小馬鹿にしている、と思う。学生に向かって、文学が大事
なら文学なんかやめろ、というようなことも、どっかでいっていた。
誰が何をいおうと知ったことか、というのは簡単だ。� �学が終わったって小説が終わらなければいい、と書いたのは、
確か橋本治氏。柄谷氏に続いて「文学の終わり」を語る論客が出る一方で、そのような物言いに反発を表明
した文学者も少なくなかった。
じゃ僕はどっち派なのか、という話、にはならないかもしれないが、いってみれば僕は、「終わった後から小説を書い
ていることにはなるけれど、けっこう本気で気にしている派」だ。
なんで終わったのか、終わったという「近代文学」ってどんなもんだったのか、氏は実はあまり多くを語っていない。この
『日本近代文学の起源』を読んでも、「言文一致」や「内面」、「風景」や「子供」といったものの歴史は浅い、と
いう話が書いてあるだけで、終わりについては語られない。それでも気にかかる。柄谷行� ��氏というのは、批判を
山と受けている批評家だが、知性にあふれた文人であることは間違いない。
そういう人にいわれてみると何だか本当に文学が終わってるように思えてくる。近代文学がじゃなくて、文学が。もう
夏目漱石とか森鴎外とかいった、日本文学を代表する人は現れない気がしてくる。それだけじゃなくて、今の日本
で小説を書いている僕たちと、漱石や鴎外とは、単に手の届かない偉人というにとどまらず、どこかで完全に分断
された、縁もゆかりもない人同士のような気がする。いやいや、人同士ならまだいい。ほんのちょっとのDNAで話も
通じなくなってしまった、猿とヒトくらい違うような気がしてしまう。
このあいだ最新の「新潮」(2月号)が届いた。僕の書いた「我が異邦」という 小説が載っている。はっきりいって苦心
作である。一生懸命書きました。書き直しに苦労もいたしました。ところがその一個手前、巻頭に置かれている
古川日出男さんの「疾風怒濤」という小説を見ると、ライブハウスで天才的なロックンローラーが即興演奏をして
いるようで、そのスピード感あふれるエクリチュールに、僕はぶん殴られたような気がした。
こんな傑作が巻頭じゃあ、すぐ次の僕の小説なんか見劣りしちゃってどうしようもない。いかにも「近代文学的」な
私小説みたいに見えてしまう。僕がどれだけ「近代文学」に凝り固まっているか、保守的というか頑迷というか、
未来に目を向けてていない小説家であるかが浮き彫りになってしまう。
どうせ近代文学者がヒトで僕が猿なら、昔の偉い人の� �となど相手にするだけ損である。だが僕は損することに
心を決めたのだ。文学をやるというのは損するのが大前提である。得がしたけりゃこんな商売やっちゃいけない。
古川さんもわが道を行くことで損をしている。損の質が違うだけである。だから僕は古川さんの作品を愛している
のだ。
そして今回、柄谷氏の「定本」を読んで、氏もまた必ずしも現代文学全否定というわけでないことを、最後の
最後にある、各国翻訳版への序文で知った。

「私がこの本を書いたのは一九七〇年代の後半であった。あとから気づいたことだが、私がこれを書いていた当時、
日本における「近代文学」が終ろうとしていた。いいかえれば、文学に特別に深い意味が付与された時代が終ろう
としていた。現在の日本のような状 況でなら、私はこのような本を書かなかっただろう。今や、わざわざ「近代文学」
を批判する必要はない。人はもう文学にほとんど関心を抱いていないからだ。これは別に日本に特有の現象では
ない。私は、中国においても、文学はこれまでもっていたような特権的な地位を失うだろうと思う。しかし、そのことで
心配する必要はあるまい。そうなったときにむしろ、本当に文学の存在根拠が問いなおされ、また、文学の本来的
な力が示されるのではないかと私は思っている。」(中国語版への序文)

そうか。終ってしまったのは文学ではなく、文学の持っていた「特権」だったのだ。文学、終らないでください、というのは、
僕にも特権をくださいといっているのに等しい。柄谷行人氏はここで現代文学者に向か� �て、お手並み拝見といって
いる。

1月5日(水)
世界全人類の皆様、明けましておめでとうございます。今年も「フィクショネス」と藤谷治を、どうぞよろしくお願い
いたします。
実家への年始周りやなんやかんやを終え、新年最初の新作映画は、日比谷で『ノルウェイの森』。
観てよかった。映像の美しさは完璧。二時間半はちょいと長いが、原作があれだから、まあ当然だろう。
内容はきわめてヘヴィである。映画を観ながら、僕はあの原作が、どうしてあれほど大量の読者を獲得したか、
理解できるような気がした。この物語は受け手(観客、読者)の心の中に踏み込んでくるだけでなく、肉体にも、
神経にも踏み込んでくる。人前で語るべきでないことについて語っている。
これは小説の持� �ている、大きな武器のひとつだ。小説は一方的に語るだけだ。もちろんそれは、読者に向かって、
読者に沿うようでありたいと願いながら語るのだが、たいていの場合それは、せいぜい「楽しい話」「悲しい話」「深刻
な話」である以上にはならない。そこまで行くのだって大変なんだけれども。
しかし『ノルウェイの森』は、そこからさらに一歩、読者の奥へ入っている。ある種の読者にとっては神経に障るし、
ある種の読者にとっては不愉快だろうが、ここでは人が人と語りにくい、しかし自分ひとりで抱え込むのも困難な
事柄が語られている。しかもそれがとてもスタイリッシュに、美しく語られている。これを読んだ人が、そのことで何か
を解決できるとは思わないけれど、少なくとも多くの人々が、自分は 一人じゃないと思えたのではないだろうか。そう
いうことは、村上春樹氏も他の小説では殆んどできなかったし、村上氏以外の小説家で、ここまでできた人はもっと
少ない。日本文学史上他に類を見ない、「文学として認められて四百万部売れた小説」の秘密が、映画にされて
剥き出しになったように思えた。
ところでこの映画に、バーテンダーの役で村上春樹氏がカメオ出演していませんか?

過去の日記

(2010年9月〜12月)
(2010年5月〜8月)
(2010年1月〜4月)
(2009年9月〜12月)
(2009年5月〜8月)
(2009年1月〜4月)
(2008年9月〜12月)
(2008年5月〜8月)
(2008年1月〜4月)
(2007年9月〜12月)
(2007年5月〜8月)
(2007年1月〜4月)
(2006年10月〜12月)
(2006年7月〜9月)
(2006年4月〜6月)
(2006年1月〜3月)
(2005年10月〜12月)
(2005年7月〜9月)
(2005年4月〜6月)
(2005年1月〜3月)
(2004年10月〜12月)
(2004年7月〜9月)
(2004年4月〜6月)
(2003年10月〜2004年3月)
(2003年8月〜9月)

Copyright (C) 2010 ficciones. All rights reserved.



These are our most popular posts:

過去の「魂への伝言」 10

簡単に説明させていただきますね。 多くの人は「(未来・将来が)どうなるか分からない」 状態で過ごされています。 ところが、「私は明日これをやる!」と決めてしまった人 にとっては「明日自分が何をするか知っている」事になります。 例えば、「よ~し、明日は 朝6 ... read more

明日に向けて

しかし、原発を造る人がどんな技量を持った人であるのか、現場がどうなっているのか という議論は1度もされたことがありません。 原発にしろ、 ... 本人は針金を落としたこと は知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったの です。 read more

原発がどんなものか知ってほしい(全)

1 時間前 ... 釜山ep、日本食料理屋に入って暫くは、ヨンファオンマはソヒョンに好感を持っている ものの、まだ嫁としては認めきれていない雰囲気がありました。 ..... イとトゥクとソとラ( カクレクマノミ)は誰が面倒みているのでしょうか? 新婚旅行はどうなるの~~~? ... 私自身、最近時間に余裕がないので、知っていても書かない情報もありますが、「●●に こういう事が書いてあった」というような情報をいただいた為に、書きかけ ... read more

ホレンコの友2011年12月号 「神への信頼のゆえに」 「神にできないことは ...

ホレンコの友2011年11月号 「私は誰が明日をつかんでいるのか知っている」 日本 キリスト教団真駒内教会牧師 田中文宏 今年も、東日本大震災をはじめとして国の内外 で多くの災害が起こり、沢山の貴い人命が失われました。また、連日のように暗い ニュースに ... read more

0 件のコメント:

コメントを投稿